ただひたむきに生きよ
ポセイドン 2005年6月2日の霊言
イエス・キリストにおいても、命乞いをすることは簡単であったはずであろう。そして、ソクラテスにおいてだって、逃がしてもらうことだって可能であったであろう。でも、彼らはどうであったであろうか。ゲッセマネの園で祈っていた時のイエス・キリストにしたって、追っ手が来るのをもう知っていたのである。逃げようと思えば逃げられた。でも、神によって、それを逃げるのは彼にとっての本分ではないと言われた時に、彼は自らの運命を受け入れることを選択したのである。
十字架の上から、「下ろしてくれ」と、喚(わめ)くことよりは、神のもとに帰っていくこと、天に帰っていくことをもって、自らの生涯を神仏の、神の使者であったということを、彼は証ししたということ。
ソクラテスにおいても、自分が語り伝えてきたこと、一生懸命伝えてきたこと、それを命乞いなんかする以上に、素晴らしいエリュシオンという天国の世界に帰って行くことのほうが、私にとっては本来価値があるということ。こんな肉体よりもっと素晴らしい世界があるのだということ。彼はその魂の高潔さをもって証すために、脱獄することもなく、自ら毒を飲んだのである。
だから、いかなる艱難苦難がこようとも、その時こそ、本来の神仏の使者であることを証しする絶好のチャンスであると、そのぐらいのことを思え。
神仏の使者に対して、道を塞ぎ、その行く手を邪魔だてするということは、した者にとっては致命的な魂の恥辱(ちじょく)となって、その後残るであろう。
そのことを思うのであるのならば、いかなることがあっても、それにより、自らの神性を証しする絶大なるチャンスをもらったのだと思って、そのような場所を与えてくれたことによって、自らの魂を光らすことができるのだと、その者たちに感謝してやればよい。
それくらいのゆとりを持って、そなたたちはこの運動に対して、人びとの手本となるべく生き方を世に示しなさい。これぞ神仏の人であったという生き様をもって、人びとに伝えていきなさい。
それがレムリア・ルネッサンスの使命です。そのような生き方をもってでしか、人びとは納得はしない。口先だけで、神が、神仏の使者が、ユートピアがと言っても、もう言い尽くされた言葉ばかりでしょう。言葉自体では、もう、言い尽くされているのだ。だから、高橋信次が転生輪廻という言葉、そして、様々な八正道とか、そういう言葉も、もう言い尽くされてきたかもしれない。
目新しい言葉がない中で、そなたたちが間違いなく天上界の使者であるということを証しするのは、そなたたちの言動、そなたたちの振る舞い、そなたたちのホームページの在り方。そして、ひたむきに何をしていくか、自分自身を一切弁解せず、弁護せず、言われても、相手に愛と感謝と祝福を送り続けるのであるのならば、それこそ誠に神の使者であるという証しなのである。
2002年11月21日 ポセイドン 「神のかがり火を、高くかかげよ」
2005年06月04日 ゼウス 「神理のたいまつをかかげ、雄々しく歩め」
2005年06月09日 ヘラ 「神と出会うための道しるべ」
2005年06月11日 ヘルメス 「愛の原理を基礎とした繁栄、発展」
2005年06月16日 アポロン 「愛の旋律を奏でよう」
2005年06月23日 アテネ 「戦いと知恵の女神として」
2006年03月25日 ゼウス 「簡単な質疑応答:血液型と霊系団」