法の実践者たれ
高橋信次 2005年10月15日の霊言
まあ、宗教やってる人たちで言うとねえ、伝道伝道みたいな感じで、一緒くたにしちゃって嫌がる人もいるかもしれないけれども、そんな組織をつくったり、会員のね、あのう、お金を取ったりとか、そういう制度に任して、金儲けしろとか、信者数増やせっていうことじゃあないから。だからそういうものじゃあないけれども、一番ある意味で大事な法というものが、宝の持ち腐れにさせないためにも、ぜひともあなた方に、ひとつのネットワークづくりをしながら、みんなで神様のご馳走というね、素晴らしいおいしいご馳走をね、分かち合って、みんなで「おいしいね」って言って食べていけるような、そういう状況にしていただきたいなあっていうのが、僕の願ってることなんです。だから易しく言えば、そういうことだよね。
だから、法の中の、法の真髄の中で一番大事なことはね、自分たちの中で理解したことっていうのが、多くの人びとの中に伝えていく段階で、あなた方の今まで学んできたことというのがね、あなた方の個性を通して、それで理解した程度に応じて、多くの人びとに伝えられていくっていうこと。その過程の中で、あなた方の、いわゆる今世の魂の中における、最終テストというものも行われているということ。
伝道は、自分が人様を助けてあげる、なんていうことではないよ。人びとに伝えていくのは、当然自分が、もう当然のように与えられたものを、その感謝の中で、多くの人びとに差し出していく、お返ししていくという作業、その中の過程の中において、あなた方の魂の転生輪廻のいくつもの過程の中の、最終決算としてのね、あなた方の魂の試験を受けていくということ。だから、人のために伝道していくなんて思ったら、大間違い。そうじゃないよ。君たちが、自分自身の魂の修行というものの総仕上げをしていく、今回素晴らしいチャンスなんだと思って、人びとに分かち合っていくための、まあ一種の伝道のようなことに、そろそろ入っていただきたいなあと、そういう時期にレムリアがきたよということを、僕はあなた方にお伝えしたいです。
それをね、分かち合うっていうことが、どのくらい大変なことかということ。それはね、知識というのは借り受けのもので、いくらでも頭に詰め込むことができる。まあ今の時代だから、ひじょうにマニアのように知識をたくさん詰め込んでいる人がいるだろう。
でも、知識というものよりも、ほんとうの意味で大事なことというのは、その人その人の中で、ほんとうの意味で咀嚼されたものとしての言動を通してあなた方が語った時に、ほんとうの意味でその神様から与えられた、知識とか法っていうものが、どれだけ多くの人びとに感動を及ぼすような、あなた方の言動として、多くの人びとを神の子本来の姿に立ち返って、変えていくことができるか。その姿を見て、あなた方がどれだけ学んでいるかということ、どれだけ習得したかという結果が問われるということなんだよ。
人というのは馬鹿じゃあないから、ほんとうにわかってない人、頭でっかちの知識だけの人から言われたとしてもね、全然感動しない。でも素朴な言葉でも、ほんとうに魂の学びを、もう終えている人がしみじみと語った言葉、おばあちゃんみたいな人がしみじみと語った言葉というのが、多くの人びとに、それを聞いた人たちにとって生きる喜びであり、希望になることを与えることができる。それが、我々の世界でいう、修行と呼ばれているものなんだよ。
だから、あなた方がどれだけ今素晴らしい 、ひじょうに、皆さん見ててもひじょうに、あのう、学歴とか職業的に見ても、勉強もよくしてるしね、経験もあるしね、いろんなことあるかもしれないけれども、素晴らしい蓄積あるかもしれないけど、あなた方の人生の今まで学んできた、ほんとうに永遠の魂の、今までの累々とした積み重ねをね、今回の最後の救世の事業のこの修行場でどれだけ実践できたか、どれだけあなた方が多くの人びとを救っていくことができたか、ということをもって、あなた方の魂が、どれだけ神様の修行に耐えうるだけの結果、成果をあげたかということ。それをあなた方がね、自分でまざまざとその結果を見ることになる。
そして、それをやはり神様に与えられたもの、学んだものを多くの人びとに分かち合っていこうという、愛の思いで自分の中で一生懸命工夫して努力していく。その過程の中で、自分の中に、人間だから誰でも欠点があるでしょう。そういうもの、まだ学んでいないことがあるでしょう。そういうものが、実践行動、愛他行というものを通した中で、さまざまなものが出てくるから。そのような中で、あなた方は学んでいく。新たな展開を、自分の魂の中で、まだ未熟であったこと、学んでいなかったことということをね、新たに発見して、課題を発見して、自分の中でそこをまた成長することができる。それを与えてくれるのは、やはりこういう実践行の中にしかないということなんだよ。
問題集の誰でもやるような、中学生高校生が学ぶようなね、基本問題があって、練習問題があってっていう、そういうような問題、それ一冊をやればみんながみんな確実に百点取れる、そんな問題ではないはずであって 。
そういう問題集をやってきたけれども、でもやっぱり、人によってそれぞれ学んだこと、得意なこと、そして漏れてるところ、っていうのがそれぞれ個性によって違うわけだよ。転生の過去世の蓄積によって違う。その中でね、その漏れたところが、いまだ未修得であったとこっていうのが出てくる。やっていくうちに、実践をやっているうちに、愛他行をやってるうちに、自分に何が欠けてたかということが、やってるうちに出てくる。そしたら、それから逃げないこと。それに正面から向き合って、今世の修行だからこそここに気づけたと、喜んで感謝して、そこで一生懸命それを乗り越えるために努力をすること。
そうしたら、また今世の修行の中で、この人生の中で、また魂が一回りも二回りも大きくなるという経験をするよ。そういうことがあってこそ、その学習すること学ぶこと、そして愛他行、そして神に対する感謝、愛を分かち合っていく、そういうことの一貫した流れの中で、人というものは、魂というものは、成長していくものなんだ。
でも、その中においても、今回のレムリアのね、活動のような、こういう時代の大きな分かれ目の時の、救世の大事業の中心に、あなた方のような、こういう計画、こういう仕事っていうものをやれるっていう、これは魂にとってものすごく大変な飛躍の時であり、あなた方にとっても素晴らしい成長の機会が与えられているということだ。
これから逃げるのもあなた方自由だよ。いいかい、新しく来た人たち、言っとくよ。逃げるのも簡単なんだ。それは、けっして神様は強制はしない。我々は何も強制しないよ。でも、やりたい者はついていらっしゃいということだ。やりたい者はここ、そしてレムリアを信じられる者たちは 、これを語っているのが、「僕は高橋信次だ」といくら言ったって、僕の家内や娘たちだって、かつての弟子たちだって信じやしないわけだから。でも、信じる者はついておいでと 。
それ、生前言っていた僕の教えと、僕が語っていたことと、綿々とここのレムリアでも、まあかつてのORさんとこでもそうだけど、語り伝えてきたことが、果たして矛盾してたことなのか、それとも一貫性があると思って信じてくれるのか。その中において僕が今命がけでやろうと、責任者としてやろうとしてる、この救世の大事業がある。この計画がある。この中において、もし、わたしの生前の教えを信じて慕ってくれていたのだったならば、僕がこの責任者になっている仕事のために、計画のために、少しでも僕の力になって、命がけでこの場所で、修行を一緒にしてくれないかと、事業展開を一緒に頑張ってもらえないだろうかと、そういう気持ちが僕にはあります。かつての弟子たちにもあります。
でも、それはけっして強制ではないから。ただ、このような時代の流れの中でね、こういう場所にね、生まれ合わせたというだけでも君たち、大変な得をしたと思った方がいいと思うよ。僕は、このような計画に参加できるだけでも、素晴らしい人生の幸運を秘めていると思う。
(中略)
かつて、生前のわたしの教えがプレミアムがつくとか何とか、またその話を僕が聞いてうれしいと、君たちは思うかもしれないけれども、わたしの生前の遺稿がどうであったとか、かつて語った言葉、その一番大事なところをレムリアが教えとして、あなた方の小冊子の中に残してくれることの方が、かつての語ったものをコピーして後生大事にしてこのレムリアで発表することよりも、よっぽど意味があることだとわたしは思う。わたしは、かつての生前の仕事がどうであった、あの時に何百万、何千万もしお金がついて売れたからといって、そんなことでわたしが喜ぶような男だと思ってもらっちゃあ困るんだよ。
わたしの頭の中にあるのはいつでも、地球にいる神の子たちをどうしたら一人でも多く救っていくことができるか、そのためにも、この最後の計画となったレムリアの中で、どのようにしたらば一人でも多く具体的に、そして一番効率良くこの計画というのを進めていくことができるか、最後の神の愛の現れとして、どのように神の愛というものを人びとに伝えていくために、この救世の計画が最大限の威力を発して、地球人類何十億、六十億の人たちが、そして霊界人口も含めてね、地獄の者たちも全部含めてね、どれだけ本来の深い神の子の本心に立ち返ってくれるか。そのためにいつも頭の中はいっぱいで、天上界で指導してます。
だから、僕がG会時代にどうであったとかこうであったとか、そんなのはやりたい団体があるんだったら、そっちに任せておきなさい。レムリアがやることではないと思うよ。そんな時のコピーがどうのこうの、じゃあないでしょう。教えというのは中身が大事であるということを、僕は何度も言ってきてる。
そして、僕にその、例えば名誉やその価値があるということを言ってくれるのかもしれないけれども、そんなことよりも、今この救世の計画を最後どのようにするかということ。そのためにレムリアが、僕の教えでもね、あとエル・カンタラーの教えでも。もう、前エル・カンタラーが言ったでしょう。地上にもう降ろしたことがある。そのことをどうか、わたしが降ろしたことをどうかレムリアのために使って、あなた方の計画を実行してほしいのだと、エル・カンタラー悲痛の思いであなた方に伝えに来ているはずなんです。それは、わたしも同じだ。わたしの主宰した団体が、ちゃんとうまく機能しなかったことをもってね。
私が生前説いた教えを、あなた方の中で咀嚼して使って、神の教えとしてまとめ上げて、それでもって地球人類の人たちに対する救世の計画として、レムリア号の計画として、あなた方が活躍していくことの方が、僕は僕の名前として資料が、僕の生前言ったことがどうだったといって、価値評価を死後に受けること以上に僕はうれしいんだよ。それをもってレムリアの、この計画の責任者という立場がある。
一個人の名誉、そんなもののために僕たちは法を説いているのではない。ましてや、それが生きてる時に評価されなくて、死んで何十年も経ってからプレミアムがついているなんていうことを、天上界の僕が喜ぶと思ったら、それは大間違いだということ。ましてや、そんなものレムリアには導入しないでいただきたい、と逆に言いたい。そんなことをしたら、我々の計画の真摯さがなくなってしまうじゃない。僕の、そんな物が何だっていうの。あの時はあの時で、一生懸命やったものです。そして、遺稿にしたって、それなりの思いで書いたかもしれない。
でも、今の僕の気持ちの中には、必死な思いで人類を守って、立ち直らせて、このレムリアの計画の中で、少しでも多くの人びとを救うために、最後の計画に命を賭けたいと思ってる。それは九次元十人、もう天上界の者一丸となって皆頑張ろうとしている。その必死さのことを思ったのなら、たかが小さな日本の教祖が書いた、そんな物の評価なんてどうでもいいことだよ。それに君たちはどうもとらわれ過ぎてるんだと、僕は逆に見てて思った。
そんなことではない。教えの中には、何万もつかなくたっていい。永遠不変の神理というのは、ただだよ。全くお金がかからない不変の神理というものは、常に無償によって神より天によって、地上にもたらされてきてるもの。それに、お金をつけるのは人間たちの単なる、そのう、価値観というかそのような時代でもてはやされる、思いによって値段がつけられること。そんなものは不変の神理とは何の関係もないし、神の本来の心とは何にも関係のないことだと、わたしははっきりと言っておこう。
高橋信次で勝負することよりも、エル・ランティとしてこれから指導していく、と言ったのもそういうことでもあるし。やはり、高橋信次という個性体を使って話した方が入り易いということ、話していき易いということはあるけれども、逆に人間高橋信次にとらわれすぎてほしくないということ。
人間高橋信次であったかもしれないけど、高橋信次という生命体は、ほんとうに人びとに神の法を地上に伝えて、一人でも多くの人びとに永遠の転生というか、神の子としての神性に戻らしていく、立ち戻って素晴らしさを、永遠の命というものを分かち合って築いていくという、築いて生きていってもらいたいという、そういう思い一心のために、まあ悪霊なんかもちょっとやったけども、そういうものを通して証をした人生であったということ。でも、そんなもので人間高橋信次の評価ばかりを追い求める、ましてやそれがお金でどうのこうのということ。そういうものは絶対レムリアには持ち込んでいただきたくない。
不変の神理は、僕が語ったことでもOさんが語ったことの中にも、永遠不変の神理はあるんだよ。それは誰のものでもない。高橋信次の神理、Oの神理ではない。いつの時代も、宇宙が始まった時から永遠の流れの中で、誰が説いても語り伝えられている、そして宇宙のすべてに行き渡る程の、久遠の法というものがある。それは、誰の神理でもない。神のただただ愛の思い、ただただ神の愛のエネルギーの中にある、一つの神の、人びとを神の子たちを愛そうとする思い、その生き様、その根本的な法の真髄の中においては、「誰の」ということはないということ。それは、個人名をつけてはならないということ。そのことを、あなた方はもっと理解していただきたい。
だったらば、レムリアで説く法で良いではないですか。G会とかなんとかっていうのではない、レムリアで説かれてきた神理としての高さを打ち出していけば、あなた方はそれでいいと思うよ。それの中においては、勝負していただきたいということ。そこにG会も何も持ち込むことはないし、K会との紛争とか、Sたちとかの紛争とか、そういうものからほんとうに卒業して、誰のものでもない宇宙の永遠の神理として、神の子としてどう生きていくかということを中心に据えた、レムリアの教えというものを築き上げていかなければ、「誰の」なんていうものをつけていくようでは、まだまだだということだ。わたしはそんなことは何も望んでいないということを、今日はっきりと伝えたいと思う。
逆にそんなことを表面に出して、僕のマニアばっかりが集まったら、レムリアの教えはおかしくなっていくよ。そんなことを僕は望んでいないよ。だから、僕の名前でなくていい。
だから、僕が生前説いた教えもすべてを総合して、大変な法の編纂をしなさいというのは、そういうことなんだ。それを通して、一番大事なものを初級・中級・上級に分けていきながら、その相手のレベル、魂の発達レベルに応じて、御馳走を差し出すようにして人びとに伝えていきなさいという 。そこにおいて、誰が降ろした法ということは、いらないということ。
その意味においては、天上界の者たちは、私たちはもう当然、自己の名誉欲などというものは当然ないから。地上の者たちだけが、それを先生先生と言って崇拝して、だいたい後世において膨らましておかしく歪めていくのが、イエス様の時だって何の時だって、仏陀の時だって同じなんだよ。高橋信次において、それがもう行われ始めているということ。それを、高橋信次を慕うからそうする、といってまた気を緩めているあなた方は、レムリアの運動においてね、真剣さというものをもっともっと考えてほしいなあと、僕は思います。だから、高橋信次が、ということは、もう卒業してください。
僕はレムリアの指導霊として、今ここにずっと関わってるということ。そして、もうどこの団体とも関係ない、レムリアとしての精神的な啓蒙運動の、そういう一つの霊文明の発祥の流れの本髄として、あなた方がこれから法というものを伝えていく。そして、それを実践する者として、あなた方一人ひとりの個性を通して、具体的に行動していく。
逆に実践していくということは、今まで法の編纂だけをしていた時よりも、あなた方自身の評価を問われる。この人が、この間言ってました。人びとの前に出るということは、ある意味で私たちメンバー一人ひとりが試されることになります、と言ってました。それをあなた方一人ひとりに、これからも問うていくのです。
これからいろいろなものを通して、出していった時いろんな方がたが来るということ。そういう方たちを、条件づけの狭い範囲で愛そうとするのではなくて、そんなものを超えて、多様な個性がある方たちをすべてを愛していけるような、そのような懐の広い愛というものが、神というものがそのような範囲限定のあるものではない、ありとあらゆるものを愛して受け入れていこうとする。それが神のお心であるということを、あなた方が実践できる神の子たちの姿として、地上に仕事をしていくという姿を見せていただきたいと思うのです。それをもって、あなた方の仕事というものがこれから展開されるということ。僕は楽しみにしています。
2003年04月04日 高橋信次 「天上界の愛と情熱」
2003年05月20日 高橋信次 「神々を試してはいけない」
2003年06月21日 高橋信次 「法とは、自分自身の光を放つこと」
2004年08月20日 高橋信次 「今は法の源流が降りる時」
2004年10月16日 高橋信次 「レムリアで自己実現はやめなさい」
2004年11月25日 高橋信次 「基本的な神理と宇宙の法」
2005年01月29日 高橋信次 「天上界はすべてを見ている」
2005年02月15日 高橋信次 (タイトルなし)
2005年03月17日 高橋信次 「地球のシフトアップと天変地異」
2005年06月18日 高橋信次 「救世の情熱」
2005年06月25日 高橋信次 「今この時をいとおしんで」
2005年08月06日 高橋信次 「無限の愛」
2005年10月27日 高橋信次 「呼ばれるものは多いが残るものは少ない」
2006年01月14日 高橋信次 「世界的な神理の時代が目の前に」
2006年02月09日 高橋信次 「宇宙における魂の高度な修行場」
2006年03月04日 高橋信次 「地球の未来はレムリア・ルネッサンスから」
2006年03月11日 高橋信次 「新たな時間論へ」
2006年04月08日 高橋信次 「質疑応答:鉱物にも魂がありますか」
2006年08月26日 高橋信次 「世界維新への道標」
2007年01月06日 高橋信次 「仲間を信じ、神を信じ、無心な思いで」
2007年04月28日 高橋信次 (タイトルなし)
2008年08月23日 高橋信次 (タイトルなし)