全ての基本は愛です
イエス・キリスト 2006年3月25日の霊言
私たちの世界から、臓器移植というものを見ているときに、このたび様々なことが、この永遠の命というものを神の子たちが有しているということを踏まえると、肉体を、修行する地上の舟であるというふうに認識されていると思います。その意味において、もし幼き者であっても、たとえば多臓器不全のような症状で生まれてくる者には、やはり、その者が悪いということではなくて、その者にはその者の修行、そして過去世よりのカルマの打ち消しになるような状況というものを、自らが設定して出てきているということがあるのです。
ですから、だったら、他の臓器を持ってこなくて死んでいく方がいいのかというと、たとえば、そのように今伺ったような、肉親がその子の命を愛おしんで、自らの体の臓器を提供してででも、その子を生かしめたいという想い、そのものは、自分の身を捨てた愛の想い、愛の行いであります。そして、その臓器において、ご両親やなんかの肉体においても、その子どもを生かしめたいという想い、愛の想いに満ちて、その子どもの体に移植されていくわけです。それは、やはり愛の循環となって、その子どもの肉体においても、受け入れられることはひじょうに多いのです。
愛が命を救っていく、その流れにおいて、一面的だけの部分で、臓器移植が全部悪いというふうには私は思わない。そのように理解しております。愛において、幼き者を救っていく。逆にそのような状況、シチュエーションというものを、その親子が設定してきているということもあるのです。
いちばん大事なことは、みずからの命を捨ててでも、愛のために、愛を育むために、お互い生かし合って、今回生きているのだということを学ぶことが、いちばん大事なことであるということなのです。
そのことによって、その子の命が長らえたということは、親に対する最大の感謝にもなるでしょうし、そして、その親にとっても、その子に自分の身を裂いてでも、その子の命を救うことができたということは、別な意味で、その子の親になったということの段階においてもそうですけれども、愛を恩返ししたということにもなるのです。
それは、輪廻転生の仕組みは、ひじょうによくできておりまして、その子ども自体も、その親になる方から愛を受けるということが、逆にお互いに愛を返し合うという形になるために、お互い親子という形で生まれている場合もあるのです。そういう意味において、愛を与え合うというその美しい姿は、臓器を移植するということ以前の問題として、それは美しい姿です。
そして、それは他の方においてもあり得るのです。たとえ、肉親において、血はつながっていなくても、自らの命を、先に亡くなっていくけれども、この命を、この臓器をどうか、多くの方々のために役立てて頂きたいと、もし、愛の想いで亡くなっていかれた方であるのならば、その臓器がそれを求めている方々に移植されていくときに、その肉体の中において、あまり反発というものが起きずに、また新たな命として、その方に貢献できることをその臓器も喜び、その与えられた方においても、修行が続行し、そして肉体を持ち、愛を与えられるということがどれだけ尊いことであり、命をいただいたということがどれだけ自分の命にとって感謝をし、そして、その感謝の中で今度は多くの方々に、この幸せを、喜びを返していこうという想いになられるのであるのならば、そのきっかけになるのであったのならば、その臓器移植というものは、すばらしい、周りを生かしめうる、周りの方々にとっても、命というもの、愛というもの、自分の命を捨ててでも愛のために生きるということの尊さというものを学ぶ、すばらしいチャンスをくれた、人生のチャンスとして、臓器移植というものがひとつの縁として、彼らに学ぶことができたのならば、それはすばらしいことでしょう。そして、その臓器も喜んでその方のところに行って、拒否反応なく、その方の命を長らえるということも、現在、世界中で行われていることなのです。
いちばん問題なのは、その亡くなっていく方の意識が、自らの命を捨ててでも、他の方の身体の中において愛を生かしむる、愛を与えていく存在になろうという覚悟なくして、亡くなられて、そして、その本人自体がまだ肉体がすべてであると思って、肉体から出られない。その肉体だけ、死んだら終わりであると思ってしがみついているところに、いきなり周りの肉親とか、その親たちが出てきて、了解もなく、まだ肉体の中に入って生きていると思っている者の身体を切り裂いて、臓器をみんな持って行ったのならば、その肉体の中にいる魂自体がたいへんな思いをし、その魂自体が救われる道が、逆に難解なものになってしまうのです。
それであるのならば、昔から行われるように、ちゃんと葬って、肉体ごと、あなたは亡くなったのだよということを言い聞かせる、しっかりしたことをもって、我々の世界に送り出して頂くことの方が、魂を救うという意味においては、その方の魂を迷わせないということが大切なのです。
ですから、何でもかんでも分け与えることが、他の方の命を救うんだから本人も喜ぶだろうと、すべて決め込んで、他の方々へ臓器を提供するということは―――。我々は魂の次元で見ております。魂が成長できるか否かということだけを考えたときに、逆に混乱と迷いと転落を意味する場合も、臓器移植というのはあるから、全面的に賛成であると言って、亡くなった方の身体を裂いて、すべて臓器を提供し合うということ、それが当たり前のルールになるということは、やはり危険性があるということを申し上げているわけです。
それが、了解が取れて、それが愛の生かし合いの行為としてなり、そしてお互いに神の子としての、学ぶ、愛の認識というものを学ぶ、すばらしいチャンスとなりうるのであるのならば、どうぞそのチャンスというのは、優秀な医学界の方々のお力を得て、また新たな命を生かしめるためのチャンスとして生かして頂くことは、私どもの世界では何ら問題はないというふうに思っております。
すべて、大事なのは愛です。愛を学ぶために地上の肉体はございます。
愛と感謝は、「表」と「裏」です。愛を、命がけの親の愛をいただいたときに、心からその子たちは感謝というもの、そして、愛というものはどういうことかを身をもって学ぶ、すばらしい尊いチャンスに巡り会うのです。それを学べてこそ、地上で肉体で、あと数十年生きること、長らえること以上に、その愛と感謝を学べたことの方が、その子どもの魂にとっては、もっとも尊いことであるということ。それは魂に永遠の記録として、残っていくことでしょう。
愛を学ぶために、あなた方は地上に出ておられるのです。愛で互いに生かしめるために、この地上に神の子として修行されているのです。愛を表現していくために、あなた方の天命はあるのです。
そのように、愛を中心に考えたのならば、すべての答えは一面的な部分だけで、断定的にものを考えるのではなくて、愛を中心に何でもお考え頂ければ、答えはすべて自然に解けるのであると思います。
ですから、今、繰り返し繰り返し言われていること。
神が愛のエネルギーそのもので、奔流であること。
あなた方が神の子であるということは、神の愛を分け与えられた、愛のエネルギーそのものであるということ。
愛を学び合うために地上にいるということ。
愛を表現するエネルギー、それがあなた方自身であるということ。
愛を学ぶこと。永遠の転生輪廻、永遠の命の中で、愛を学ぶために神の子は存在するのです。
その愛の気高さ、愛の美しさ、それが神を知る道になります。それが永遠の神を、神の子としての悟りの道でもあるということです。
これからの統合医療というものは、科学的なもの、肉体というものが、どういうふうな部分でできているかということをしっかりと理解した上で、メンタルな部分における、霊的なエネルギーを引いた、愛のエネルギーとしての、神の子としての霊体が入って、その上で物質的な肉体という舟が機能しているということを、しっかりと正面から見据えることによって、人間の病というもの、そういうものを根本的に治していく力になるのです。
それまで、西洋と東洋、別々に分裂して何ごとも発達してきました。それが統合されていくということは、霊的なる医療というものが、ある意味では東洋が負っていた課題なのです。霊体を治療していくことにより、肉体を治していく。そのようなものが、東洋的な治療の根源的なものにあるのです。
それに比べて、肉体というものを物質というふうに見なして、それをひじょうに実証的な、研究的な部分において、それを実際の投薬とか手術とかいうような外科的なものを含めて、物質というもので割り切って治そうとしている。そのどちらかだけでというのは、やはり、それぞれの機能というものにおいて限界があるということなのです。
やはり、西洋医療と東洋医療、もう今、西洋医学のお医者たちの中でも、東洋的な部分というのを取り入れて治療をやられている方も多いと思うのですけれども。それがこの地上が、この最終的に統合に向かっていく流れの中で、医療においても、西洋的なもの、東洋的なもの、それは言い換えるのならば、しっかりとした物質的なそういう検証に裏付けられて、その上でメンタルな、ある意味で、霊体的な治療、魂としての治療というものを、人間が霊的な生き物であるということを、しっかりと正面から見据えた上での、手を取り合った統合医療というものが必要になるというふうに、私どもも思っております。
そして、肉体というものは誠に尊いし、地上で修行する神の子たちにとっては、何よりも大事な乗り物、乗り舟になっているのは事実なのです。でも、ある意味で言うと、この地上の、この三次元の幸福感が、この肉体の中に閉じ込められた、この、これだけが地上の神の子の姿であると、人間の姿であると。そして、この肉体生命が終わりを告げたのならば、それで一切が終わってしまうと、そのような誤った価値観に裏付けられているからこそ、何が何でも、この物質的な肉体に留まろう、留まろうとする想いの中で、いたずらな延命治療いうものが行われているのかもしれません。
でも、ほんとうの意味で言ったのならば、この三次元で着ている自分の身体を包む衣のようなものが、ある意味で言うと肉体であるのだと思ったのならば、この地上での使命を終えたのならば、その衣は脱ぎ捨てていくものなのだという、そのような気持ちになったときには、やはり、多くの方々がこの衣を脱ぎ捨てる段階において、いたずらな努力というか、そのようなものは、延命というものは望まなくなるときが来ると思うのです。
逆に言うと、幸せに、執着を残さずあの世へ旅立って行くことを、しっかりと指導するということも、逆に、医学系のお医者様といわれている方たち、医療チームがやることになるかもしれません。
最後の苦しみや痛みがあったときにでも、やはり心の持ち方、気持ちの持ち方で、その最後の瞬間を迎える痛みの度合いというのは違ってくるように思うのです。そして、あなた方が帰って行く世界があるのだと、そして、これから今回の地上での寿命の長さというのは、間違いなく、あなた方自身でほとんど決めて来ているのです。
この中に、百歳まで生きた方がいいからと言って、ほんとうに百歳まで生きたいと思う方が何人いられますか。百歳になれば身体も足腰もがたがたになるのです。動くこともできず、おいしいものも食べられない、「いやー、私は百歳まで生きたくない。」と言って、自分のいちばんいい時というのを設定して、だいたい寿命というのは決めて来られているのです。そのように生まれ落ちたときに、あなた方は細胞レベルの中に、もう埋め込んで生まれて来ているのです。それはあなた方の自由意志で、青写真の中に計画されている。それを必要以上に短くしたりする、不摂生とかいうのもあります。そして、事故にまれに合う場合もあるのです。でも、それ以外のことを思うのならば、ご自分たちで決めて来た寿命であるということ。そして、過去世の因縁を晴らしていくためにも、カルマを晴らしていくためにおいても、今世、いちばんそれが果たしやすい環境、果たしやすい病というものが、結果として、原因の結果として、果として、肉体に起きている状態というのがあったときに、それはやはり、病気として現れ出でていければ、それは消えていく姿として、ありがたいというふうに思って、病とつきあっていく道もあるということなのです。
だから、物質としての肉体をすべての人間とし、その人間だけが長く生きながらえるために、いたずらにこの物質的な世界に縛りつけるために、延命を行う、そのためだけに投薬、治療していくという姿、それはやはりその方の魂の喜び、幸せ、幸福度にはつながらないということ。
そのためには、それこそあなた方がやろうとしているレムリア・ルネッサンスの中において、魂が永遠であるということ、今生での使命と、この今生での寿命というもの、それはあなたが決めてきたことなのだという深い認識というものを、一人ひとりの魂が知るということ。地上の者たちが知っていくということ。その時に病とか、死というものの、苦しみ、恐怖から人類が解放される瞬間でもあるのです。
そうすれば、医療というものは、もっとすっきりとしたものになってくるということです。そして、環境が愛により統合、統治され、愛により整えられてきたのならば、このような様々な公害病みたいなものは、なくなっていくでしょう。アレルギーのようなものもなくなっていって、病の数もぐんと少なくなって、お医者様たちの力というものも、苦労というのもずいぶん軽減されるのではないかというふうに思っています。
愛により清められていったあとには、社会はひじょうにシンプルなものになってくるのです。そして、愛に反するものというのが、環境の中から無くなっていったときに、愛のエネルギー体としての、神の子たちの肉体というものはひじょうに統御されて、病というもの、事故というもの、いたずらな苦しみというものから解放されて、人々は幸せな地上生活を暮らしていく、そのような段階になるというふうに思います。
基本は愛であるということです。
愛を学ぶために、地上の肉体もあるということです。そして、痛みが激しいとやはり地上で神の子として、愛を語ろうとしても、心に余裕がなくなって、やはり辛くて、ぎすぎすした想いになってしまう。
だから、そういう意味において、あなた方のお力によって、地上の者たちに肉体の苦痛から解放していくように、努力していただきたいと思うのです。
でも、どうか、魂としての神の子がもっとも尊いのであって、肉体の部分においての執着で、いたずらな苦しみや、神の子としての修行の本業を過(あやま)たないように、それを指導して頂きたいのも、また医療チームの方々への、私からのお願いでもございます。 そこを中心に、愛を中心に考えたのならば、すべてのことというのは解けていくということを、私たちが今、それを解説しているのです。
2002年09月30日 イエス・キリスト 「ノストラダムスは嘘をついたわけではない」
2005年01月08日 イエス・キリスト 「奇跡の時代を生きているのです」
2005年05月14日 イエス・キリスト 「愛は永遠に流れ続ける」
2006年04月08日 イエス・キリスト 「愛の羅針盤を」
2007年07月08日 イエス・キリスト 「質疑応答」