親子の縁を通して魂を高め合う

「親子という関係を通して、まあ、夫婦というのは血がつながっていないので、今は安易に離婚というのができましょう。でも、親子はどうでしょうか。自分の分けた子です。血を分けた子です。父親にとっても、母親にとっても、自分の血を分けた子ではありませんか。そうするしがらみのなかで、たとえ投げ出してしまいたいと思うことでも、必死に人間は留まって、何とかその関係を通して成長し、折り合いをつけてうまくやっていこうとするのです。やろうとする、その投げ出さないということを通して、魂は成長し合うのです。高め合うのです。」 きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集68 マリア・テレジア」(アマーリエ著)P55より転載 皆さん、こんにちは。レムリア・ルネッサンスの小夏と申します。 私の父は、7人兄弟の長男で祖母は一番下の子を産んだときに、亡くなっています。 祖父は、酒癖が悪く子どもの世話をあまりしなかったため、父が親がわりのように兄弟の世話をしていました。父が結婚してからも、兄弟たちは家族で来たりしていましたが、独身の弟も近くに住んでいたので、食事などの世話を母がしていました。 父は私が中学生の頃には、アルコール依存症のため入退院を繰り返し、いろいろな病気も併発したためその後は、自宅に戻ってくることはなく、療養所での生活になりました。 そんな中、母は父の弟と関係を持つようになっていき、父とは離婚しました。 その後、母は叔父と再婚し経済面で生活を支えてもらっていましたので、 私は母と叔父の関係を受け入れざるを得ませんでした。 私にとって家庭はやすらぎの場とは言えず、日が経つにつれて母に対して嫌悪感が募っていきました。「どうして、私はこんな親の元に生まれたんだろう」と、うらめしくさえ感じていました。 叔父は無口でもくもくと仕事をする人でしたが、私が24歳で結婚した年に事故で亡くなりました。 叔父が亡くなってから母は体調をくずし、精神的にも不安定になり病院通いの日々になっていきました。 私自身が地元で結婚したこともあり、何かにつけ父や母の世話をしてきましたが今は両親ともに亡くなりました。 両親が亡くなってから、レムリアの神理に巡り合い学ばせていただく中で、自分から両親にお願いをして産んでもらっているということを知りました。頭では理解できても父や母に対する思いはなかなか切り替えることができ

個性の尊さ

「いかにして神の子として神の愛を表現できますか?  この時代の中で、この傷つく者たちが多い時代の中で、何をもって神の愛をあなた方は表して生きることができますか?  それを神は、常にあなた方に問われておられるのです。  それぞれの個性において、力量において、特技において、個性において、立場において、いろいろなものができることは違われるでしょう。でも違うからこそ尊いのであるということ。違うものがあなた方に与えられているからこそ、この神の国は、神の園は成り立っていくのであるということを思って、自らの使命を発揮されていただきたいのです。」 以上 きれい・ねっとより出版『スピリチュアルメッセージ集76 大天使サリエル・聖母マリア』(アマーリエ著) P117より転載 みなさまこんにちは。レムリア・ルネッサンスの秋野稲穂と申します。 私は幼い頃から人前に出たり、思いを表現することが苦手でした。また、人に遠慮したり、『人の言うことの方が正しいはず』と自分を信じることができず、考えや気持ちを抑え込むところがありました。そんな私は仕事もあまり人とは関わらないルーティンワークの配送や部品の組立を選んだのですが、急な引越しや家業の手伝いが入り、そう長くは続きませんでした。 私は数年前から公共施設内にあるおみやげ処で働いています。この会社のコンセプトは、それぞれの持ち味や思いを表現し、尊重し合い、向上していくという「創意工夫」です。私はそれまで人に合わせながら過ごすことが多く、自分を見つめることがあまりありませんでしたので、会社の人に「あなたの持ち味は?」と聞かれてもなかなか思い浮かばず、私の何をどのように表現すればいいのやら・・・と、戸惑ってしまいました。そして、『みんなはどうやっているんだろう・・・』と、周りのスタッフをみてみると、ふとした思いつきや疑問への対処を考えたら、『とりあえずやってみる』と気軽に行動していたので、あまり深く考え込まず、『わからないことはスタッフに教えてもらえばいいや』と開き直り、勇気を出して思いつくまま行動し始めました。すると、自分の興味やものの見方、表現方法などで気づきが出てくるようになりました。また、同じテーマでも人によって受け取り方や表現の仕方がそれぞれなので、そういった違いも以前より面白く感じられるようになりました。 スタッフ一人ひとりの持ち味が生かされ

自分自身を愛する

「自分自らを本当の意味で愛せない者が、ほかの者たちを愛せない。 ほかの者、自分自らの弱さや、過ちを許せない者が、ほかの者たちの弱さや、甘さや、悲しさを許してやることはできないよ。 それが人間だ。 完全である必要はどこにもない。」 以上、きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集37 プロティノス」(アマーリエ著)P76より転載 皆さま、こんにちは。レムリア・ルネッサンスの尼野雪江と申します。 レムリア・ルネッサンスがお伝えしている神理の一つに、「私たちはみんな神の子であり、愛のエネルギーそのもの」という言葉があります。 たくさんある神理の中でも、一番根本的なものと言えるかもしれません。 ただ、頭で「すばらしいなぁ」と思っても、自分自身に当てはめようとすると、なかなか実感がわかなくて困ったのも、この言葉でした。 昔から自分のことを本当の意味で愛せていなかったのも、その一因かもしれません。 私は小さい頃から、集団生活の中ではきちんとしているほうで、学校ではよく先生にほめられていました。 でも、人間関係などで気を遣うことも多く、学校から帰ってくるとぐったりして、親にはあれこれわがままを言う日々を送ってきました。 当然親からはあきれられ、自分でもそんな生活がいいとは思えず、外でいくらほめられても自信につなげることはできませんでした。 私はずっと前から、自分の長所も短所もすべてを知った上で、「あなたはよく頑張ってるね。今のままでもじゅうぶんすばらしいね」と誰かに言ってほしかったのだと思います。 でも、それはほんとうは自分で自分に言うべきだったのでしょう。 プライドがあると、なかなか弱い自分と向き合うのは勇気がいりますが、女性には、神様からありのままを受け入れ、受け止め、癒す力(受容性)が与えられております。 女性自身の心が傷ついていると、なかなかその力に気づかず、発揮できないこともありますが、それでも女性は男性よりも、自分を赦し、愛し、癒していくことができやすいのかもしれません。 ちなみに、赦すことと甘やかすことはまた違うとも言われます。 自分をちゃんと赦して、かつ自分に言い訳をしないことが、今の私の課題だと思っています。...

命がけでぶつかっていく

「社会の中に出て恥ずかしいような言動をするような者であるのならば、ほかの他人は冷たく笑っているだけかもしれない。でも、そのときには、腕まくりをして行って、命がけでその子どもと体当たりをして、その子どもに恥ずかしい思いをさせないために、命がけでぶつかっていって、子どもには人間のあるべき姿を教えていく。この体当たりをしてぶつかっていく、その姿が愛であります。親の愛であります。」 (日向)  以上、きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集60 日向」(アマーリエ著)P44より転載 皆さま、こんにちは。レムリア・ルネッサンスのあかねと申します。 かつて私は、家族というのは当たり前のようにあるものであり、そこに大きな意味があるなど考えたこともありませんでした。しかし神理に出合い、私たちは愛を学ぶために転生輪廻を繰り返していて、生まれる前に約束をして家族となったのだと知りました。他人同士なら、嫌になれば会わなければいいし、見て見ぬふりをしてもいいかもしれない。けれども家族という逃げられない関係の中で、突きつけられた現実の中で、互いに愛を学び合う。「神様はなんてすばらしい学びの場を用意してくださったのだろう」と、「この家族と学び合う一日一日を大切にしたい」と思うようになりました。 そして愛を学ぶというのは、きれいごとではありません。 以前、娘が4~5歳の頃、お店で買ってほしいものを買ってもらえなくて、服の下に隠して持って出ようとしたことがありました。私はそれがどんなにいけないことか、本気で伝えました。しかし数か月して、また同じようなことが2~3度ありました。私は、「えっ、あれだけ言ったのに、伝わってなかったの」と、がく然としました。そして迷い出しました。「頭ごなしにしかるのは良くないのかもしれない」「愛情不足が原因なのだろうか…」と。 けれども、相手のために本気でしかることも愛なのです。同時に自分自身、たった1回本気で言えば子どもは変わるはずと勝手に思い込み、「それなのにどうして」と不満や不安を募らせていたことにも気づきました。 あきらめないこと、見返りを求めないこと、そして形ではなく、そこに愛があるかがもっとも大事なのだということ。 それは私にとって、迷ったときに立ち戻る原点となっています。 子どもが大きくなるにつれ、さまざまな局面が出てくると思いますが、子どもに嫌