スタッフブログ

出産

「出産におきましても、男女の出会いにおきましても、すべて神のご意志に組み込まれた中にあります。 出産による痛みも、もし安易に産んでしまったのならば、どうでしょう。今でもあれだけ痛い思いをして十月十日抱えて産むにもかかわらず、子どもを平気で捨てていき、殺してしまう母親たちが、今います。 あの痛みがなかったなら、もっともっと安易に子どもを産んで、イヌ・ネコのように産み捨てることでしょう。あの痛みにも意味があるのです。」 (玉依媛命) 以上、徳間書店より出版の「アマテラスの祈り」(アマーリエ著)(玉依媛命)P225~P226より転載 皆さま、こんにちは。 レムリア・ルネッサンスの宇佐見祐加と申します。 私は0歳児を育てている主婦です。 「出産は痛そうでこわいな。私に耐えられるのだろうか」 幼い頃からテレビで出産シーンを見るたびにそう思っていた私は、帝王切開を経験しました。 出産は、鼻からスイカを出すようなものと言われるくらい痛みを感じるものです。 帝王切開は麻酔をするので痛くないと思われていることもあるかもしれませんが、お腹を切るので術後は痛み止めを飲んでいても痛いです。 術後の翌日には血栓予防のために、痛みに耐えながら産院の中を歩く必要があり、またお腹を切った痛みの他に後陣痛による痛みも加わります。 一人ひとり身体は違い、痛みにも個人差がありますが、いずれにしても出産は痛いことには変わりありません。 私の場合は、妊娠中に大きくなってしまった子宮筋腫が産道を塞いでいて、出産の際に赤ちゃんが苦しくなってしまう可能性が高いということで、赤ちゃんのためにも帝王切開をすることになりました。 麻酔を打ちましたが、あまり効いていない状態でした。 赤ちゃんがお腹の中にいるので追加の麻酔を打ってもらえずに、そのままの状態で赤ちゃんを取り出すことになりました。 お腹を切られるのも痛かったけれど、それ以上に赤ちゃんを取り出すことが痛くて仕方ありませんでした。 本当に痛くて、泣き叫びながらの出産になりました。...

自分を守らないこと

「だから、とにかく裸になっていく。この間から何度も言われていることですが、自分を守らないでいようとすることが、最も早く強くなっていく、進化していく道だということです。恐怖心を持って、いろんなものから自分を守ろうとか、欲の中で自分だけが、という思いで自分を飾ろうとすると、進化発展が遅れてしまうのです。 だから、ほんとうに愛一色に―――。それが神の子であるということなのです。」(アマーリエ) 以上、徳間書店より出版の「アマテラスの祈り」(アマーリエ著)P249より転載。 こんにちは。レムリア・ルネッサンスのたまきと申します。 私は一時期、主人の仕事の関係で海外で暮らしていたのですが、しばらくの間ほとんど言葉がわからず、ひとりで外に出るのも人と会うのも不安でとても憂鬱でした。 引っ越した当初4歳だった息子もやはり言葉には困っており、現地の幼稚園に通い出したばかりのころは「みんなが何を言っているかわからないから幼稚園に行きたくない」と言って泣いたこともありました。 でも息子はそれからどんどん言葉を覚えていきました。 「すごいなぁ」と思って見ていると、息子は不格好でも間違っていても、誰かが聞いていても誰もいなくてひとりのときでも、かまわずよく喋って遊んでいました。 その一方で自分自身を振り返ってみると、私は「うまく話せない」とか「間違えたらいやだな」、「通じなくて返事がもらえなかったらどうしよう」と、そんなことばかり考えていつも話すことから逃げていました。 そして当然ですがあまり進歩もありませんでした。 そのとき私は、それまでもずいぶんこうして失敗や間違うこと、傷つくことを恐れて自分を守っていたんだなということに気がつきました。 今思うと、無意識のうちに枠からはみ出すことを恐れ、それでも自分自身でありたいという思いとの葛藤の中で動けずにいたのかもしれません。 でもこの神理と出会えたことで、 ありのままの自分というものを信頼して表現していきたいと思うようになりました。 それから、拙い言葉でも少しずつ周りの人にあいさつをしたり、話かけてみたり、できることからするようにしてみました。 そうしているうちに、以前なら人から声をかけられないよう、逃げるように近所の前を通り過ぎていたのが、人と会って話をすることが次第に楽しくなっていきました。 また、満足に話せなかったとしてもあまり気になら

私たちは神の愛に生かされている

「魂は永遠であるということ。  死ぬことは少しも怖くないのであるということ。  幾転生を通しながら、人びとは学び、幾つかの過ちをしても、過ちがあるからこそ人間であるのであると。  過ちを、その人の欠点も含んで、神は愛されているからこそ、この永遠の命を与えたもうているのであるということ。  それほどに神の愛というのは、慈悲というものは、深く大きいものであるということ。  その大きなる神の愛に、我々は生かされている神の子たちであるのだということ。」(マイトレーヤー)   以上、きれい・ねっとより出版された「スピリチュアルメッセージ集52 マイトレーヤー」(アマーリエ著)P37より転載。   こんにちは。 レムリア・ルネッサンスの、いちごと申します。   神理を学んでいると「神の愛によって生かされている」と色々な方の霊言に書かれています。 それを頭では理解できても、心から実感するということがなかなかできずにいました。   思春期の頃の私は、実はあまり良い子ではありませんでした。 学校で禁止されていることや、親が困ると思うことをやるのが、わりと好きでした。 例えば、禁止されていた自転車通学を行ったり、学校や塾をサボったり、というようなことです。 今思えば、親の関心を引きたかったのかもしれませんが、当時は冷静に自分の心と向き合うことは考えもせず、「自分がやりたいことをやるんだ」と思っていました。...

愛のキャンドルサービス

「あなた方の人生の中で、自分自らを高めると同時に、自分が与えられたことの中で、ささやかなことでもいいから、より恵まれない方がた、そして、迷っておられる方の何か一筋の力になりたい、他者を一人でも幸せにしていきたいのだというその思いの中で、ひとつでもあなた方が行動を起こしたときに、愛のキャンドルサービスは始まるのです。」(聖母マリア) 以上、きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集65 聖母マリア」(アマーリエ著) P26より抜粋いたしました。 こんにちは。レムリア・ルネッサンスの飛鳥と申します。 「私たちはこの世に愛を学ぶために生まれてくる」ということを、レムリアのメッセージの中で何度も言われています。そしてそれは、行動・実践の中でしか本当の意味で学ぶことはできない、ということも言われています。 私は今の職場に勤め始めてから、約20年近くになります。パート勤務なので出勤日数は少ないのですが、気づくとかなりの歳月が経っていました。 最初にパートを始めてからの7年間は、私はまだ神理のことは何ひとつ知らず、職場に対しての不満とか、上司に対しての不満がいろいろありました。 ある日、会社の都合で退職をしてほしいと言われました。 私は会社を辞めたいという気持ちが以前からあったので、すぐに退職することに同意しました。 専業主婦として、精神的にも肉体的にも自由な生活を送っていたころ、私はレムリア・ルネッサンスの書籍と出会いました。 そこには「愛のキャンドルサービス」という初めて聞く言葉が何度も出てきて、私も何か行動したいという気持ちになっていきました。 私には子どもがいなかったので、仕事をして社会貢献したいと思い、職探しをしていました。 そんなときに、会社都合で退職した職場から声がかかり、3年ぶりに職場復帰することになりました。 職場は以前と全く変わっていませんでした。昔やっていた仕事は1週間で思い出しました。 ただ、私の心の中は以前と大きく変わっていました。 不景気で世間では職がないと騒がれているときに、働く場所を提供していただいたことへの感謝と、小さな仕事かもしれないけど誰かの役に立てるという喜びでいっぱいでした。 以前の私ならなるべく面倒な仕事には関わらないでおこう、と思っていたのが、人がやりたがらないことでも積極的にやるようになりました。そしてみんな神の子であると

ささやかな一歩から

「あなた方だって自分自らが神の子であるということを気づかずに、神が宇宙の中でこのように無限の時の中で、ただただ黙って酸素を、ただただ黙って神の太陽の光を与えて私たちを育んでくださったことに、全く恩知らずなあなた方であったではありませんか。 それであるにもかかわらず、神はただただ無償に愛というものを投げかけ、あなた方を育んでこられ、あなた方が進化発展するためにその環境を整えてこられ、そのために祈りをもって、あなた方をこの世に生み出してくださったのです。(中略) 愛は循環するのです。 その方に与えた愛をもって、その人からだけ返してもらおうと思うから、苦しみがわくのです。 ほかの人たちを赦しなさい。そして、あなたの愛を求めている人は、数々の方たちがあなた方の身の周りにいるはずなのです。 できることからしなさい。無理はしなくていい。無理をする必要はない。 でも、あなた方がやれるささいなことはたくさんあるはずなのです。毎日行き交う人ににっこりと笑って、『おはようございます』、『こんにちは』と言うことも愛の一歩でしょう。」(アモール) 以上、きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集59 アモール」(アマーリエ著) P47~50より抜粋いたしました。 皆さま、こんにちは。 レムリア・ルネッサンスの彩花(あやか)と申します。 私は、両親と弟が一人という家庭で育ってきました。 しかし、家庭では会話もなく、私は家族との仲はよくありませんでした。 でも、心のどこかでこのままでいいのかと悩んでもいました。 そして30歳頃のある日、この霊言にふれました。 「神が宇宙の中でこのように無限の時の中で、ただただ黙って酸素を、ただただ黙って神の太陽の光を与えて私たちを育んでくださった」という一文を読んで、私は誰からも愛されていないと思っていたけれど、神様からは愛されているのだなと思いました。 また、「できることからしなさい。無理はしなくていい。無理をする必要はない。」、「『おはようございます』、『こんにちは』と言うことも愛の一歩でしょう。」とありましたので、私もこれならできるかもしれない、できることから愛を表現してみようと思いました。 私の家庭は会話がありませんでしたので、普段挨拶をすることもなかったのです。...

感謝

「一生真っ暗な闇の中で閉ざされ、光を見たことのない者が、光り輝ける素晴らしい、美しい自然界の姿を見たときの感動。耳も聞こえぬ、ほかの方がたの声も聞こえぬ、音のないサイレントな世界の無音な世界の中で、何の声も聞こえない孤独の中に閉じ込められていたときに、一筋の小鳥のさえずりを、波の、さざ波の音を、木々の風の吹き抜ける音を聞いたときの感動を、あなた方は味わったことがありますか?  あなた方はあまりにもそういう幸せに慣れすぎていて、感動することを、感謝することを忘れている。幸せというのは何かをつかまえたり、物質的なものをつかまえたからといって幸せがあるのではないのです。自分がおかれているささやかなことでも感謝し、それを感動をもって、人生の中で愛を人びとに振りまいて、神に感謝して、自らの神の子としての生きざまを、人生をかけて精一杯生き抜いていった者には、たとえどんなにみすぼらしく見えた生涯があったとしても、本人の心の中は、幸せと感動で、震えているのです。」 以上、きれい・ねっと 出版「スピリチュアルメッセージ集51 ヘレン・ケラー」(アマーリエ著)  より抜粋致しました。 皆さまこんにちは、レムリアルネッサンスのミオと申します。 私は切迫早産のため、約5か月病院での入院生活を送ったことがありました。 立っていいのはトイレと洗面のみ、そのほかはできるだけベッドで横になっていました。本などは読むのですが、それ以外の行動はできず、お腹の赤ちゃんの成長に一喜一憂する日々でした。 そんな毎日の中で喜びだったのは、美しい夜空、雲の形、雪など、窓の外の変化を見ることでした。普段元気に歩きまわれるときはなんの感謝もなく当たり前の光景でしたが、自由に動け、いろんなものを見ることができるということは、本当にありがたいことなのだと思いました。 妊娠期間が進んでくると、稀に主人に車椅子で押してもらいながら病院の売店に連れていってもらえました。病院の玄関を出て、新鮮な空気を吸ったとき、本当に心地よく、早く無事に退院して新鮮な空気をずっと吸っていたいと思いました。  入院中、お腹の子のために体はあまり動かすことができず、自分がふだん元気に健康に動けることのありがたみを感じました。また、看護師さんや医師の方がたに本当に毎日お世話になり、自分ひとりで生きているのではなく、周りの人から助けられ支えていただい

すべての経験は宝物

「みんな神の子なのです。  みんな輝けるのです。  でも、光の子として、神の子としての輝き方を忘れてしまっているのです。  それをもう一度人びとに提示していく、教えてあげる。  それをするにはどうするか。  あなた方一人ひとりが神のメッセンジャーとして、真にその人生をかけてトータルな言葉、トータルな生きざま、行動、それを通して真に神の子とはどうやって生きるべきかを、あなた方が表さなくてはいけません。」(アウグスティヌス)   以上、きれい・ねっとより出版の『スピリチュアルメッセージ集75 アウグスティヌス』(アマーリエ著)P35より転載   皆さま、こんにちは。レムリア・ルネッサンスの友香(ゆか)と申します。 私は、20代前半のときに、うつ病になりました。社会に出てこれからというときでした。 周囲の人と自分を比べ、自分はだめなんだと、とても落ち込みました。 とにかく、病気をなんとかしなくてはと、色々な精神世界の本を読み、たどりついたのが神理でした。   しかし、努力をしても、私はなかなか根本的に変われませんでした。 よくなったと思ったら、また落ち込んだり、寝込んだり、浮き沈みは続いていました。 そんな自分を、私はいつも責めていました。   思うように生きられないストレスから、感情的になって、主人に当たってしまうこともあり、そんな自分がますます嫌になるのでした。...

愛を学ぶために

「ほかの霊人がおっしゃられておられますように、七割、八割の方の幸せは、今小桜が申し上げた言葉で十分救われていくのです。そして、この地上の人生の意味が変わってくるのです。」 (小桜姫) 以上、きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集55  小桜姫」(アマーリエ著)p64より転載 みなさま、こんにちは。レムリア・ルネッサンスの朝月真理と申します。 私の祖母は認知症です。発症してからもう10年が経ち今は何も分からず寝たきりです。 私は帰省して祖母に会う度に、「おばあちゃん、大丈夫だよ、私たちの本当の姿は魂で、この世に愛を学ぶために生まれて来たんだよ。何も怖がることはないよ。あの世は幸せな世界だよ。」と心の中で話しかけます。 でも、母にはなかなかその事を話せないままでいました。祖母の認知症が進まないようにと一生懸命思い出させようとしたり、運動させたり、そんな母の必死な姿を見ていたからです。 レムリア・ルネッサンスの書籍を何冊か渡したことはあったのですが、「霊的な事は何だか怖い、よく分からない。」と言っていました。 3年ほど前のお正月、私が実家に帰省した時、母が「お母さん、また白髪が見えてきたねぇ、染めようねぇ。」と話しかけているのを聞いて、私は思い切って「もう染めなくてもいいんじゃないかな、そのままのおばあちゃんで。」と話してみました。 母は一瞬とまって、そのまま黙ってしまいました。一生懸命な母に申し訳ない事をしてしまった、身近な人にこそ、何かを伝えるということが、どんな風に伝えたらいいのか、とても難しいものだと感じました。そして何となく気まずいまま実家から戻ってきました。 その年の夏休み、子どもたちを連れて帰省すると、祖母の髪の毛は真っ白になっていました。髪の色が違うだけでこんなに違うのかと驚くほど、真っ黒に染めていた時よりも、白髪でにこにこ笑っている祖母は随分老けてみえました。 母が「染めるのやめたんよ。もうこんなにおばあちゃんやったんやねぇ。私はいろいろ必死やったけど、でもこっちのおばあちゃんのほうがいいねぇ。それに、よく分からんけど死んでも終わりじゃないんやろう?あの世もあるんやろう?」と言ったので私が驚いていると「何か、桜の姫さまが、書いてあったでしょう、まだよくは分からんけど。」と言うのを聞いて、涙が出ました。母も泣いていました。 神理に気づくきっか

親子の縁を通して魂を高め合う

「親子という関係を通して、まあ、夫婦というのは血がつながっていないので、今は安易に離婚というのができましょう。でも、親子はどうでしょうか。自分の分けた子です。血を分けた子です。父親にとっても、母親にとっても、自分の血を分けた子ではありませんか。そうするしがらみのなかで、たとえ投げ出してしまいたいと思うことでも、必死に人間は留まって、何とかその関係を通して成長し、折り合いをつけてうまくやっていこうとするのです。やろうとする、その投げ出さないということを通して、魂は成長し合うのです。高め合うのです。」 きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集68 マリア・テレジア」(アマーリエ著)P55より転載 皆さん、こんにちは。レムリア・ルネッサンスの小夏と申します。 私の父は、7人兄弟の長男で祖母は一番下の子を産んだときに、亡くなっています。 祖父は、酒癖が悪く子どもの世話をあまりしなかったため、父が親がわりのように兄弟の世話をしていました。父が結婚してからも、兄弟たちは家族で来たりしていましたが、独身の弟も近くに住んでいたので、食事などの世話を母がしていました。 父は私が中学生の頃には、アルコール依存症のため入退院を繰り返し、いろいろな病気も併発したためその後は、自宅に戻ってくることはなく、療養所での生活になりました。 そんな中、母は父の弟と関係を持つようになっていき、父とは離婚しました。 その後、母は叔父と再婚し経済面で生活を支えてもらっていましたので、 私は母と叔父の関係を受け入れざるを得ませんでした。 私にとって家庭はやすらぎの場とは言えず、日が経つにつれて母に対して嫌悪感が募っていきました。「どうして、私はこんな親の元に生まれたんだろう」と、うらめしくさえ感じていました。 叔父は無口でもくもくと仕事をする人でしたが、私が24歳で結婚した年に事故で亡くなりました。 叔父が亡くなってから母は体調をくずし、精神的にも不安定になり病院通いの日々になっていきました。 私自身が地元で結婚したこともあり、何かにつけ父や母の世話をしてきましたが今は両親ともに亡くなりました。 両親が亡くなってから、レムリアの神理に巡り合い学ばせていただく中で、自分から両親にお願いをして産んでもらっているということを知りました。頭では理解できても父や母に対する思いはなかなか切り替えることができ

個性の尊さ

「いかにして神の子として神の愛を表現できますか?  この時代の中で、この傷つく者たちが多い時代の中で、何をもって神の愛をあなた方は表して生きることができますか?  それを神は、常にあなた方に問われておられるのです。  それぞれの個性において、力量において、特技において、個性において、立場において、いろいろなものができることは違われるでしょう。でも違うからこそ尊いのであるということ。違うものがあなた方に与えられているからこそ、この神の国は、神の園は成り立っていくのであるということを思って、自らの使命を発揮されていただきたいのです。」 以上 きれい・ねっとより出版『スピリチュアルメッセージ集76 大天使サリエル・聖母マリア』(アマーリエ著) P117より転載 みなさまこんにちは。レムリア・ルネッサンスの秋野稲穂と申します。 私は幼い頃から人前に出たり、思いを表現することが苦手でした。また、人に遠慮したり、『人の言うことの方が正しいはず』と自分を信じることができず、考えや気持ちを抑え込むところがありました。そんな私は仕事もあまり人とは関わらないルーティンワークの配送や部品の組立を選んだのですが、急な引越しや家業の手伝いが入り、そう長くは続きませんでした。 私は数年前から公共施設内にあるおみやげ処で働いています。この会社のコンセプトは、それぞれの持ち味や思いを表現し、尊重し合い、向上していくという「創意工夫」です。私はそれまで人に合わせながら過ごすことが多く、自分を見つめることがあまりありませんでしたので、会社の人に「あなたの持ち味は?」と聞かれてもなかなか思い浮かばず、私の何をどのように表現すればいいのやら・・・と、戸惑ってしまいました。そして、『みんなはどうやっているんだろう・・・』と、周りのスタッフをみてみると、ふとした思いつきや疑問への対処を考えたら、『とりあえずやってみる』と気軽に行動していたので、あまり深く考え込まず、『わからないことはスタッフに教えてもらえばいいや』と開き直り、勇気を出して思いつくまま行動し始めました。すると、自分の興味やものの見方、表現方法などで気づきが出てくるようになりました。また、同じテーマでも人によって受け取り方や表現の仕方がそれぞれなので、そういった違いも以前より面白く感じられるようになりました。 スタッフ一人ひとりの持ち味が生かされ

自分自身を愛する

「自分自らを本当の意味で愛せない者が、ほかの者たちを愛せない。 ほかの者、自分自らの弱さや、過ちを許せない者が、ほかの者たちの弱さや、甘さや、悲しさを許してやることはできないよ。 それが人間だ。 完全である必要はどこにもない。」 以上、きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集37 プロティノス」(アマーリエ著)P76より転載 皆さま、こんにちは。レムリア・ルネッサンスの尼野雪江と申します。 レムリア・ルネッサンスがお伝えしている神理の一つに、「私たちはみんな神の子であり、愛のエネルギーそのもの」という言葉があります。 たくさんある神理の中でも、一番根本的なものと言えるかもしれません。 ただ、頭で「すばらしいなぁ」と思っても、自分自身に当てはめようとすると、なかなか実感がわかなくて困ったのも、この言葉でした。 昔から自分のことを本当の意味で愛せていなかったのも、その一因かもしれません。 私は小さい頃から、集団生活の中ではきちんとしているほうで、学校ではよく先生にほめられていました。 でも、人間関係などで気を遣うことも多く、学校から帰ってくるとぐったりして、親にはあれこれわがままを言う日々を送ってきました。 当然親からはあきれられ、自分でもそんな生活がいいとは思えず、外でいくらほめられても自信につなげることはできませんでした。 私はずっと前から、自分の長所も短所もすべてを知った上で、「あなたはよく頑張ってるね。今のままでもじゅうぶんすばらしいね」と誰かに言ってほしかったのだと思います。 でも、それはほんとうは自分で自分に言うべきだったのでしょう。 プライドがあると、なかなか弱い自分と向き合うのは勇気がいりますが、女性には、神様からありのままを受け入れ、受け止め、癒す力(受容性)が与えられております。 女性自身の心が傷ついていると、なかなかその力に気づかず、発揮できないこともありますが、それでも女性は男性よりも、自分を赦し、愛し、癒していくことができやすいのかもしれません。 ちなみに、赦すことと甘やかすことはまた違うとも言われます。 自分をちゃんと赦して、かつ自分に言い訳をしないことが、今の私の課題だと思っています。...

命がけでぶつかっていく

「社会の中に出て恥ずかしいような言動をするような者であるのならば、ほかの他人は冷たく笑っているだけかもしれない。でも、そのときには、腕まくりをして行って、命がけでその子どもと体当たりをして、その子どもに恥ずかしい思いをさせないために、命がけでぶつかっていって、子どもには人間のあるべき姿を教えていく。この体当たりをしてぶつかっていく、その姿が愛であります。親の愛であります。」 (日向)  以上、きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集60 日向」(アマーリエ著)P44より転載 皆さま、こんにちは。レムリア・ルネッサンスのあかねと申します。 かつて私は、家族というのは当たり前のようにあるものであり、そこに大きな意味があるなど考えたこともありませんでした。しかし神理に出合い、私たちは愛を学ぶために転生輪廻を繰り返していて、生まれる前に約束をして家族となったのだと知りました。他人同士なら、嫌になれば会わなければいいし、見て見ぬふりをしてもいいかもしれない。けれども家族という逃げられない関係の中で、突きつけられた現実の中で、互いに愛を学び合う。「神様はなんてすばらしい学びの場を用意してくださったのだろう」と、「この家族と学び合う一日一日を大切にしたい」と思うようになりました。 そして愛を学ぶというのは、きれいごとではありません。 以前、娘が4~5歳の頃、お店で買ってほしいものを買ってもらえなくて、服の下に隠して持って出ようとしたことがありました。私はそれがどんなにいけないことか、本気で伝えました。しかし数か月して、また同じようなことが2~3度ありました。私は、「えっ、あれだけ言ったのに、伝わってなかったの」と、がく然としました。そして迷い出しました。「頭ごなしにしかるのは良くないのかもしれない」「愛情不足が原因なのだろうか…」と。 けれども、相手のために本気でしかることも愛なのです。同時に自分自身、たった1回本気で言えば子どもは変わるはずと勝手に思い込み、「それなのにどうして」と不満や不安を募らせていたことにも気づきました。 あきらめないこと、見返りを求めないこと、そして形ではなく、そこに愛があるかがもっとも大事なのだということ。 それは私にとって、迷ったときに立ち戻る原点となっています。 子どもが大きくなるにつれ、さまざまな局面が出てくると思いますが、子どもに嫌