命がけでぶつかっていく

社会の中に出て恥ずかしいような言動をするような者であるのならば、ほかの他人は冷たく笑っているだけかもしれない。でも、そのときには、腕まくりをして行って、命がけでその子どもと体当たりをして、その子どもに恥ずかしい思いをさせないために、命がけでぶつかっていって、子どもには人間のあるべき姿を教えていく。この体当たりをしてぶつかっていく、その姿が愛であります。親の愛であります。」
(日向)
 以上、きれい・ねっとより出版の「スピリチュアルメッセージ集60 日向」(アマーリエ著)P44より転載

皆さま、こんにちは。レムリア・ルネッサンスのあかねと申します。
かつて私は、家族というのは当たり前のようにあるものであり、そこに大きな意味があるなど考えたこともありませんでした。しかし神理に出合い、私たちは愛を学ぶために転生輪廻を繰り返していて、生まれる前に約束をして家族となったのだと知りました。他人同士なら、嫌になれば会わなければいいし、見て見ぬふりをしてもいいかもしれない。けれども家族という逃げられない関係の中で、突きつけられた現実の中で、互いに愛を学び合う。「神様はなんてすばらしい学びの場を用意してくださったのだろう」と、「この家族と学び合う一日一日を大切にしたい」と思うようになりました。

そして愛を学ぶというのは、きれいごとではありません。
以前、娘が4~5歳の頃、お店で買ってほしいものを買ってもらえなくて、服の下に隠して持って出ようとしたことがありました。私はそれがどんなにいけないことか、本気で伝えました。しかし数か月して、また同じようなことが2~3度ありました。私は、「えっ、あれだけ言ったのに、伝わってなかったの」と、がく然としました。そして迷い出しました。「頭ごなしにしかるのは良くないのかもしれない」「愛情不足が原因なのだろうか…」と。
けれども、相手のために本気でしかることも愛なのです。同時に自分自身、たった1回本気で言えば子どもは変わるはずと勝手に思い込み、「それなのにどうして」と不満や不安を募らせていたことにも気づきました。
あきらめないこと、見返りを求めないこと、そして形ではなく、そこに愛があるかがもっとも大事なのだということ。
それは私にとって、迷ったときに立ち戻る原点となっています。

子どもが大きくなるにつれ、さまざまな局面が出てくると思いますが、子どもに嫌われたくないからと機嫌をとるのではなく、真に子どもの成長を願い、つねに真正面から向き合っていける母親でありたいと思います。