すべては愛を学ぶため

皆さま、こんにちは。
レムリア・ルネッサンスの彩花(あやか)と申します。

昔の私は、家族との関係がよくありませんでした。
なにをしても否定され両親から怒られるので家庭はやすらげる場所ではなかったのです。そのため家にいたくなかったので、仕事に逃げ、休日であったとしても朝から深夜まで出かけるというような日々を送っていました。
食事もいいかげんなものですませ、身体をまったく気づかっていませんでした。

そうして無理を重ねていたためなのか、あるとき急に嘔吐し呼吸をうまくすることができないような状態になり、もう生きていられないのではないかと思いました。それ以来外出することができなくなってしまい、家のなかでさえも動くのもやっとのような状態でした。病院には行きましたがよくはなりませんでした。

どうも自分の奥にある感情とずれたことを無理にしようとすると過呼吸発作や吐き気がおそうようでした。しかし、それまで自分の感情を無視した生き方をしていたので、表面的には自分の感情がまったくわからなくなっていました。感情がわからないので頭で考えて自分の気持ちにたどりつこうとして数時間かかることもありました。自分の感情がわかるとスッと過呼吸発作や吐き気がおさまるのでした。
それはまるで自分自身がどう感じているのか答え合わせをしているような状態でした。
いやおうなしに自分自身と向き合う時間が与えられたようでもありました。

自分の気持ちを大切にしようとした生活をしていると、2年、3年とたつうちに少しずつ体調も回復していきました。そして家の近所なら外出することも徐々にできるようになっていきました。外にでてみると太陽のあたたかな光が前と変わらずにあって、はげまされているような気持ちになりました。それから近くの図書館に行き、心理学の本やビジネス書などを読んで、自分の生き方や、仕事のやり方のどこを改善していけばいいのかヒントを見つけようとしていました。
そうして5年がたとうとするころ、近くの書店でレムリア・ルネッサンスの書籍に出会い、神理にふれました。

そこには、私たちは愛を学ぶために生まれてくるということが書かれていました。愛とは、感謝することや、ゆるすこと、そして愛を与えてこそ学べるものだともありました。
自分の人生を振り返ってみると病気をする前の私は、ただ生活のために働き、まわりに合わせようとして生きていたことに気づきました。まわりの人たちからは、「競争社会を生き抜くためには人を蹴落としてでも生きろ」とか、「優しさなんてものはダメだ」と言われていたのですが、どうしてもそうは思えませんでした。そのため感情がなければまわりに合わせられるのではと思い、自分の気持ちを無視して、いつしか感情を感じなくなっていたのでした。
だから、愛のために生きるという視点はとても衝撃的であり、そういう生き方をしてもゆるされるのだな、と思うと心が軽くなりました。

今度はまわり人の価値観に合わせて生きるのではなくて、自分のためにも愛を与えるような生き方をしてみたいと思いました。
そして、ひとのために何かをしようと思いましたが、急に社会にでるのは怖かったので、まずは地元でボランティアをしようと思いました。ボランティアであっても5年ほど引きこもったような生活をしていたのでとても勇気がいりましたがなんとかはじめることができました。体調は不安定でしたが、少しずつ外にでていくうちに社会復帰することができました。
ひとのために何かしようという愛の思いは、自分に勇気を与える力になることを実感しました。ささやかながらも愛を与えることは幸せであるということも知りました。

当時を振り返ってみると病は苦しかったのですが、私は自分自身の気持ちに寄りそうことがとても苦手だったので、向き合わせていただくきっかけとなりました。
そして、まわりの方の価値観に必要以上に沿おうとしてしまったのは、まわりの方にどう思われるのかを気にしすぎていたからなのだと気づくこともできました。
そこに気づき、自分の気持ちを大切にすると、ほかの人の気持ちも尊重し大切にすることもできるようになりました。そうすると、ほかの人も私の気持ちを尊重してくれるようになったと感じました。
当時はたいへんでしたが、そうしたひとつひとつを乗り越えてみると前よりも心が軽くなり成長できたようにも感じ、すべてが愛の学びであったと感謝しています。
これからもいろいろなことがあると思いますが、愛の学びに感謝して生きていきたいと思います。