かなえられる祈りと、かなえられぬ祈り

かなえられる祈りと、かなえられぬ祈り

 祈りというものの中には、自我我欲による物質的な欲、欲念による祈りというものと、それから自分たちではない他者に対する幸せ、愛念というものを込めて神仏に祈る祈りという二種類があると思うのです。
 もっと詳しく分ければ別に分けられるのですけれども、大きく分けたときには、欲念から出てくるものと、自分の欲とかそういうものではなくて、自分のそういう欲念から離れたところから大いなるもののために、他者のために幸せを祈るという、大きな意味で二つの祈りになっていくのです。
 その欲念から出たもの、それがたとえば念が強ければ確かに引き寄せるとい う法則はございますけれども、皆さま方がそれを見ていて、その祈りが全部かなえられるかと申しますと、いくら念が強くても、かなえられる祈りと、かなえられぬ祈りというものがあると思うのです。
 そしてそれが、神様がいるのならば、どうしてこの苦しい病気を治してくれないのか。どうしてこのようなひどい状況にわたしたちがおかれているのかとか。どうしてこのように貧乏なんだとか。そのようなことを、神も仏もあるものか、という言葉をよく聞かれますでしょう。 でも先ほどから申し上げておりますように、私たちの世界で学んだことを、地上で肉体をもってそれを合格するために、皆さま方は肉体を持たれて地上に出ているのです。  その時にね、たとえば自分の中に課題があるのです 。たとえば、今世出たときには平凡に生きて、幸せに生きたならば、自分は怠け心がまた出てしまうから、絶対に平凡にだけではなくて、より多くのもとに、神仏のもとに貢献して生きてくる人生を、自分自らが計画の中に盛り込んで、それから逃げられないように自分を設定して出て来る場合というものもあるのです。  病気においてもそうでしょう。あと、体の状態においてもそうなのです。一見その方にとって不幸と思われる事が、多々あると思うのですけれども。この間、ヘレン・ケラー様がお出になられておられましたけれども、では、じゃあ三重苦であったから彼女は不幸であったかというと、不幸であるか不幸でないかということは、病気であるとか不具であるとか、お金があるとかないとかとい うことは、根本的に違うということなのです。  もし病気を、「神よ、こんなに苦しい病気があるのですから、わたしの目の前からすべて病気を治してください」と。そして、「こんな貧乏はいやだから、すべて今、天からお金を降らしてください」と、もし祈って、それが、もし全部神様がお聞き届けになって、その祈りが全部かなったとしたならば、ほんとうにそれがその魂にとって幸せなことであるのかと考えたときに、小桜は絶対にそうではないというふうに、もう今では、はっきり言えるのでございます。

きれい・ねっと 出版
「スピリチュアルメッセージ集55 小桜姫」(アマーリエ著)  より抜粋