第15話 母との和解

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愛実めぐみ!」

その時、廊下の端から自分を呼ぶ声がした。
聞き覚えのある声に背筋がビクっとした。

薄暗くなった廊下のむこうに愛実の母、智実ともみが立っていた。

「愛実。香代かよは?」
愛実は慌てて涙をぬぐうと、香代のいる個室へ母親を案内しようと立ち上がった。

その時、久恵ひさえが驚いた声を上げた。
「あれ、あんた…」
そう言いながら、ソファから腰を上げた。

「…、お久しぶりです」
智実は頭を下げると、久恵の前まで歩み寄って来た。

「あぁ~。なんだ。牧原さん、あんたの娘だったのかい」
愛実は事情が分からず、母と久恵の顔を代わる代わる見た。

「覚えていらしたんですか?」
「もちろんだよ」
こんなに照れくさそうな母を見るのは初めてだった。

久恵が笑いながら何度もうなずいて、愛実の顔を見た。
「お嬢ちゃん、大丈夫だよ。あんた、ちゃんと愛されているよ。驚いたねえ、こんなに大きくなって。お嬢ちゃんの事あたしが取り上げたんだよ」

「えぇっ!」
なぜだろう。急に恥ずかしくなって、愛実は両手で顔を覆ってしまった。

「はっきりと覚えているよ。牧原さん、初めての出産で一生懸命うちに通われてねぇ…。見せてあげたいね、どんなにあの時、あんたを抱いてお母さん幸せそうだったか…」

愛実はそう言われてもピンとこなかった。今自分の目の前にいる母からは、残念だけれど想像できなかった。

「あんたが生まれる時、お母さんは自分の命より大事だと言っていたよ。こんなに立派に、大きくなってねぇ」
「もう―、十六年経ったんですね」

落ち着いた母親の口調に愛実は過剰に反応した。
「え? よく覚えてたね、年数」
そう言ったとたん、久恵がそばにいることを思い出し、さっと目を伏せた。

「誕生日。祝ってあげなくて悪かったわ。仕事が忙しいのよ」
「どうせ忘れてたんでしょ」
愛実は乱暴に言い返すと、母親をにらみつけた。

智実はかすかに眉間にしわを寄せたが、久恵を前にして冷静さを保っていた。

「私はね、愛実のために働いているのよ」

「私のため? いつも夜遅く帰ってきて。お父さんとはケンカばっかりして。私は毎日ひとりぼっちでご飯食べているのよ。誕生日さえ忘れられてるっていうのに、それのどこが私のためだっていうの?」

愛実は久恵が見ているのも構わず、ずっと我慢してきたことを母にぶつけた。

「こっちには、こっちの事情があるのよ…」
智実はぽつりとつぶやいた。

愛実がまた何か言い返そうとして口を開くと、久恵が間に割ってはいった。

「牧原さん。十六年前とはいえ、ここでお世話したお母さんだもの。あんたも私の娘みたいなもんだ。お子さんもこんなに立派に育って…。会えて嬉しいよ」

久恵は智実の正面に向き直ると言葉を続けた。
「娘だと思って言わせてもらうけど、あんたのお子さんを本当に幸せにしたいなら、愛に満ちた家庭を作りなさい。
子どもをかわいいと心の中で思っていても、言葉や態度で伝えてやらないと、なかなか伝わらないもんだよ」
まるで小さな子どもをさとすように、久恵は言った。

「お母さんが愛に満ちた家庭の中で子どもを育てれば、子どもは愛されている自信に満たされて自分の事も大事にできるし、他の人にも優しくできるんだよ」
愛実の視線は、返す言葉に困っている母親に向けられた。

「そういう子どもたちが世の中にたくさん増えてごらんよ。社会全体が愛に満ちて、世界が変わっていくだろうね。子どもの世界で起きているいじめや自殺、若い女の子たちの援助交際なんかも、きっと無くなっていくと思うよ」

久恵は心配そうな目で自分を見ている愛実に向かって「大丈夫」と、目配せした。

「どういうものが愛に満ちた家庭なんでしょうね…。私にはよく分かりません。それなりにやってきたつもりでしたけど」

自分自身に問いかけるように、ぽつりぽつりと話す智実の目は涙でうるんでいた。

「そうだねぇ。ご飯をこしらえてやって、話を聞いてやって、一緒に成長を喜んで…。
牧原さん。最近、笑えているかい?

お母さんは家の中で太陽のような存在なんだよ。お母さんの笑顔ひとつで家は明るくなるものさ」

久恵の言葉に智実は一瞬ドキリとした。
「そういえば、愛実とはほとんど会話をしてませんでした…」

「娘さんは立派に育っているよ。とても優しい子だ。でも、寂しいんだよ。子どもは母親の愛が必要なんだ。ほんとうはこの子、あんたの事を慕っているよ」

智実は娘の顔を真正面から見つめなおした。
そういえばこのところ、家にいて娘の存在を感じてはいても、じっくりと顔を見なくなっていた。

あどけなかった少女の面影から、いつの間にかすっかり女性らしい顔立ちになっている。私の知らない間に、こんなに頼もしく立派になって…。

愛実は母親からいつまでも視線を向けられて、落ち着かなくて目をそらした。

「愛実…」
長く聞くことのなかった優しい声。

「ごめんね」
愛実は静かに向きなおり、母親の顔を見た。

「お母さん…」
愛実は、その先を言おうとしたが言葉にならなかった。
こらえていた涙がひとつ、またひとつ、頬にあとを残していった。


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