第10話 急いで産院へ

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どれほどの時間、ここに立ちつくしていたのだろう。
愛実めぐみはケータイの着信音で現実に引きもどされた。

“♪♪~~♪♪”
(こんな時に、誰?)
香代かよさんケータイ”の画面表示。

一瞬ためらったが、家には他に誰もいないことを思い出して呼び出しに応えた。

「あ、メグちゃん? 香代だけど。今どこ?」
「…公園」

「そっか、デート中にごめんね。悪いんだけどさあ、帰りにお醤油買ってきてくれる? 使おうと思ったら切らしちゃってて…」

「…ダメ…」
涙で声が震えている。
「え、ダメ? そんなこと言わないで、メグちゃ~ん」

「…私、死にたい…」
最後は泣き声になっていった。
「え、ちょ、ちょっと待ってメグちゃん! 何があったの?」

愛実は一方的に通話を終えると、ケータイの電源を切った。

取るものも取りあえず、香代は公園にやって来た。
愛実が幼かった頃よく一緒に遊んであげた場所だ。

急いで歩いてきたせいで息が上がってしまった。
時折お腹が張ってきて、立っているのが辛くなってきた。

もう臨月だし、初産ということもあって予定日を一週間も過ぎていた。香代はあまり長い距離を歩くのは心配だったが、今はそれどころではなかった。

お腹をさすりながら広い池のそばを通りかかった丁度その時、池から突然何羽もの水鳥たちが一斉に飛び立って行った。

香代は驚いてビクっと肩をすくめた。それと同時にお腹に痛みが走った。
頭の上を飛んで行く鳥の姿を目で追っていると、展望台の手すりの前に誰かが立っているのが見えた。

遠くをぼんやり見つめている愛実だ。

「メグちゃん!」
「香代さん…」
愛実は香代に呼びかけられて、思わず下を見た。
その頬は涙でぐしょぬれになっていた。

「どうしたの? こんなところで…」
お腹の痛みをこらえて声を上げた。

「香代さん…、もういや。私、死んでしまいたい」
「何言ってるのっ、メグちゃ…あっ――」
展望台に登ろうとしたところで、さっきよりも更に強い痛みがやってきた。

「あ…、どうしよう」
香代がその場にしゃがみこんだ。

「え? 香代さん」
愛実は手すりに身を乗り出して下をのぞきこんだ。

「もしかして、もう破水してるみたい。どうしよう。もうすぐ生まれるかもしれない」

「えっ――!!」
香代の緊急事態を前に、愛実は涙の原因を頭の中から一旦追い出して、展望台の階段を一気に駆け降りていった。

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香代の元に駆け寄ると陣痛が始まってしまったのだろうか。「痛い、痛い」としきりにお腹をさすっている。

「ここに、電話して…。痛た、た、た…。それから、タクシー、呼んで…」
香代から渡された携帯には産院の電話番号が表示されていた。

愛実はゆっくりとタクシーから降りた。
香代を支えながら産院の入り口にようやく辿り着いた。

中に入ると、受付はすぐ目の前にあった。診察時間はとっくに終わっていて、待合室はがらんとしていた。

「あ、あのー、先生は…」
受付の奥でファイルを片づけている女性に声をかけた。

「あー。電話してくれた人ね。今、お産が重なっちゃってね。もうちょっとしたら先生が来るから。こっちの部屋で待ってて」
そう言って、ふたりを通路の奥の和室に案内してくれた。

部屋には布団が敷いてあった。香代は愛実の手を借りながら腰をおろして横になった。
時折、別の部屋からは「うう~ん」とか「あーっ」といった、今まで耳にしたことのないような、うめき声が聞こえてきた。

愛実は次第に怖くなってきた。
(どうしよう、いつ帰るって言おうかな…。香代さんは、もう大丈夫だよね?)
とぎれとぎれに聞こえてくるうめき声に、愛実は怖さが先立ってきた。

「はぁ~。少し落ち着いたわ。メグちゃん。ありがとう。お産が始まってる人がいるわね」
香代の耳にも出産の痛みに耐える声が届いていたらしい。

愛実は香代に大事が無くてほっとする半面、頭の中では以前想像した、スイカと赤ん坊のことがよみがえってきた。

しばらくして、ようやく助産師の久恵ひさえが部屋にやって来た。
「はい、お待たせ。どうだい?」
貫禄のある年配の女性だ。

かたわらにいる助手が手際よくお産の準備を始めた。
「いたた…。また、来たみたい」
香代は時折やってくる痛みに顔をゆがめる。

「先生、陣痛の間隔が短くなっています」
助手が言う。

「う―ん。この調子だと、間もなくだね。もうちょっとだよ。頑張って」
久恵が香代のお腹を触診しながら言った。

「付添いは、どうします?」
助手は不安そうに愛実をちらっと見ると、一瞬間をおいて香代に向かって返事を求めた。

「姪っ子です…。メグちゃん、いてもらってもいい?」
愛実は自分で役に立つのか分からなかったが、香代の差し出した手を両手で握ると、気丈にも笑顔を見せてコクリとうなずいた。

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