出口王仁三郎
「彩りに満ちた世界を具現化されよ」
2005年4月23日 『日の本の神ここに立つ』に掲載
わしも近代の日本に生まれて、いろいろな使命を果たしたが、今は高天原の一角に居座っている。
今我らの世界において、「裏神道」、「表神道」という言葉はなくなりつつある。その垣根を払った中で、我々も、今回和解をし、我々が我々の力をもって、表の神々と呼ばれた方々よりも、遥かに法力という力をもって、魔を封印していくという力をもっている。
自然界の中におき、地球の根本的な法則、根本的な摂理というものをもって、人びとに影響を与える力というものを神より授かっているのが、我らが裏神道、「元」裏神道と呼ばれている者たちの力である。技である。
その力を、今我は最大限に使い、龍神や竜宮界や、仙人や天狗と呼ばれてきた者たちでも、けっしてけっして下に堕ちている者たちばかりではおらんことを、そなたたちももう知ってるであろう。その者たちの持っている技術や、技や法力、磨いたものをもって、今日、霊文明というものを花開かせようと思うとるのじゃ。
そのことを、神の国の花壇を彩るひとつの花々として、忌み嫌うものでなく、彩りとして、裏神道の力というものを、今日のこの日本に表すことをもって、神のお力のすべてを出しきろうという、そのような話し合いが行われたのじゃ。
我々の世界でもやはり、各個人の修行がある。それぞれの意見の相違というものもある。然れども、そのような神の国で、神々が仲違いしているようであっては、ほんとうの意味での和を持つということは、意味を為さぬであろうという、そのような反省も行われたのじゃ。
だから我々は、その力をもって、神々の計画に参画することをもって、この悲願である計画のために、逆に一丸となって、力を合わすことにより、仲違いしていた者たちが心から許しあい、手を差しのべあうことにより、ひとつにまとまることができたのだ。
だから逆にいうと、今回の計画が、数々に座礁に乗りあげてきたこと、難航を極めたことを、わしはそなたたちにも、この地上の者たちにも、反面感謝したい思いがある。
我らは「裏」、「裏」と呼ばれ、その力を忌み嫌われてきた。しかし、我らが修行せし力も、神が与えたもうた力であるということ。そのことをもっと認めてほしかったがゆえに、暴れてきたきらいもある。
我らが修行したもの、我らが力、我らが法力は、そんなにも忌み嫌われるべきものなのか、何の価値もないものであるのかと、それが裏側の者たちの主張でもあった。神の力の中には、そのような力をもって、そのある意味で、そなたたちの力でいうならば、超能力とか、今この者がやっているような力も、根源的な神の力に近いものがあるのである。 それをたまたま強くもち合わせた霊系団の者たちがいる。その者たちの力を忌み嫌うものとして、排他的に扱うのであるならば、それは根本的に、調和を旨とする日本神道の考え方には反するのではないかという主張もあった。
しかし、今それを、お互いに手を取りあうことにより、我々は彼らと歩み寄り、彼らも我々に歩み寄ってくれた。
法というものは、本来が、いちばん大切なものである。我らが裏神道は、どちらかというと、法の神髄を学ぶというよりは、その、もともと持てる力を磨くことの方に最優先してきたきらいがある。どうしても、その能力による慢心的な気持ちの中で、その法力合戦になってきた可能性もある。それは我らが大いに反省すべき点である。
然れども、そのような力をもってこそ、魔を封印し、そのような力をもって、神が、神の人たちが道を切り開くという、その道を守り、守護し、神の国を、その法のもとに具現せしめる、実現させていく力、現象化させていく力、そのような力には、この我々が持つ「法力」というものが、ひじょうに力を持つときがある。形にする時には、神が、造化の瞬間、天地創造の、造化の瞬間に使われるのは、我らが力と同じである。宇宙の中により、この物質界に、何もないところに波動を集中せしめ、現象化し、物をこの世に映し出していく。この具現化していく力は、我々が持っている力と同じである。
それを我々は引き継ぎ、それを継承するものとしての霊系団がある。その者たちが、モーゼと呼ばれている方にしてもそうであるが、超能力とかさまざまな法力とか、中国にも仙人界があるように、そのような力のほうが優先している者たちがいるのである。その者たちの力をもって、悪とみなし、裏とみなし、忌むべきものとして封印されてきたという歴史がある。常に表の方だけが最優先されるという、そのものをもって、表の力をもって、最高の価値あるものとして認められてきた歴史というものがある。
しかし、今は「表」も「裏」もない。表も裏の力を持たぬが、理屈理論だけで法を学んだと、慢心したものの中において「堕ちる」ということも、反省の中であるであろう。
我らが世界は、即実行であり、即実現である。その実現される、具現化される力がなければ、我らが世界では一向に認められぬ。あそこにあるリンゴひとつ、眼力だけで落とせぬようであったら、どう理屈をこねたとて、そなたに「力がある者」と言えぬであろう、というのが我らの世界である。
それはもっと言うのであるなら、「この地上において、『神の子』と、どんなに騒げども、どんなに法を知った坊主であろうとも、この地上におきて、人びとのために、国民のために、ひとつでもいいことを為さねば、その口に法を語る資格はないわ」と。
「この地上に、行動において具現せしめる力なくて、きれいごとを言うのではない」と。
逆にそう言うのが、我々の立場でもある。
頭だけに神の法を詰め込んでもだめである。感性の中で、悟りの中で、実際に、この地上におき、自らの命を削ってでも、この神の国を実現させる人びとの力になるために、どれだけのことが具体的にできたかという行いをもって、その地上に具現させる力をもって、我らは神の国の、神の子としての証を示すことを、その使命としてきた。
それが、我らが裏神道のルーツである。行ってきた足跡である。
でも、今やっとそれが認められた。表の神々とも和解をし、我々も、もう少し法を学ぼうと、そのような謙虚な反省の中に入っているのが、我らの今の状況である。
今これからは「霊性の時代」と言われている。この物質的にみな満たされたこの時代から―――。
よいか。
これから霊的な、自らの神性の中にある神の子としての霊性に目覚めていく時代がくる。その時に、そなたたちは、もっともっと自らの力を信じ、引き出さねばならぬ。我らが裏神道、裏の力を持った者たちが霊的な力を持つのではない。そなたたち一人ひとりも、もっともっと、気づいていないだけの霊的な力を持っている者たちであるということ。霊言のようなこのような力は、神より選ばれし者にだけが降りる力ではあるけれども、我らが磨いているような力であるのならば、そなたたち一人ひとりにおいても十分発揮できるものである。
それが邪魔になる時もあろう。しかし、これから霊文明の、霊性の証明ということをしていく時に、そなたたちのように、知的に、法理論も持った者たちが、多くの現証を通して語っていくことが、もし可能であるならば、もっともっと多くの者たちが、この、そなたたちレムリア・ルネッサンスというところの力を信じていくであろう。
だから自己限定をしないこと。
自らの力を信じること。
そのようなことをもって、そなたたちの使命を果たすという、そういう側面が欠けておろう。
違うか。
霊的なことはすべてこの者に任せ、自分たちは表である、ということの理論の中だけで、悠然としているように我には思う。
しかし、神の子が神の子である、ということ。その可能性は無限であるということ。その自らの力をもっと信ぜよ。そうすれば、大いなる力が発揮されてくるであろう。
悟りというものが、難しい難しい修行の過程の中で、蘊蓄(うんちく)かました小難しい理論に囲われたものでなければ、何にも高みまでに行けないのであるならば、それは少しも、神理などというものは人間を自由にしないものであるとわしは思う。
悟りというものは、高くなればなるほど、自己の魂を自由にするものである。自由に、自らの神の子としての神性を表現せしめ、人びとに対して多くの愛というもの、まぁなんというか、夢というものを広げていける、そのようなものであるとわしは思う。
その時に、坊主と呼ばれている連中は、あれもしない、これもしない、だから一生懸命修行して、自分を高みに連れて、多くの悟りを開いて、人びとを、衆生を指導しようとするかもしれないけれども、あれもしてはいけない、これもしてもいけないという思いの中で、ひじょうに魂を不自由に縛っているように思う。
然れども、わが思う悟りの中には、高みに昇れば昇るほどに、修行というものは、魂の中で神の子の神性を開き、自由に、この大海原のように、この宇宙の中を、自由に自在に飛んでいき、泳ぎ、自分の中における光を自由自在に発揮できる、そのようなものが悟りであると、わしは思う。
だから、一面的な、画一的なものの中だけで悟りというものを考えず、自分の中に自己限定をせず、自由に、神のもとに、自らの与えられた個性というものを信じて、大いにがんばっていただきたいと、わしは思う。
わしが大本教や、数々の中で予言したもの、それが当たったものもあればはずれたものもあるであろう。そのようなものは、もう終わったことである。それは今日のことを目指し、やはりそのことを思うための先陣として、わしはあの時代に命を持った。
然れども、今はその本番の時を迎え、神の国の計画というものが、今難航座礁し、また新たな計画が立てられている。
ノストラダムスと呼ばれている世紀の大予言者においても然りであろう。けっして外れたというわけではないけれども、あの時はあの時の計画の中における、未来のビジョンというものがあった。今はそれが最終的な段階にきて、これからどのようになるか、それは上の神々におかれても、わからぬことがあるということ。
だから、そなたたちにおいては、みだりな予言は禁止されているはずである。なぜであるならば、上の神々であってもわからぬことがある。それは、それほどに旧来の流れの中におけるそなたたちの動きではないということ。そのそなたたちの頑張り、次の世代に生まれた者たちの頑張りにより、未来というものはいくらでも塗り替えられていくから。でも、そなたたちが頑張れなければ、その先に見える未来は語る必要はないということ。
逆にいうと、未来はないということである。だからこそ予言は今降ろされぬ。
我が降ろした予言。それはその時代の中で、その当時の計画、神の計画に沿うた未来を、そのままに映し出したビジョンであった。それにより、口にすることにより、多くの迫害があったけれども、そなたたちに同じ思いをさせたくはない。つまらない未来を予言することにより、そなたたちが本来の使命を果たさねばならぬことから、つまらぬトラブルの中で、エネルギーや時間を取られることを私も望まない。わしも望まない。多くの神々も望んではおらぬ。
だからあの時代と今とでは違うということ。そして、我も今は、あの時、生を終え、この天上界に帰ってきたその当初より、今も数々の変化を乗り越え、今このような状況の中で、このから先の未来に対する願いに近いような思いで、そなたたちを見ている。それは、我ら天上界の神々すべてが、そなたたちに思っているひじょうに強い切ない願いでもある。
それをそなたたちは、我らの思いを引き受け、どうか自由に、自ら神の子としての力を発揮して、この地上最後の計画の中にまい進されていただきたいと思う。
そなたたちは、その最先端の中で、神から降ろされる叡智というものを、人びとに提示していく、最先端の力の中で、今霊言が降りてきている。それをどれだけ理解できるか。
理解できぬものは「魔だ」という。自らの理解能力の不足を棚に上げ、自らの霊的な知覚能力を棚に上げ、この者の力を「魔だ」と言う。
それは自らの学習が足りぬだけ。
自らの器が足りぬだけ。
自らの力が、識別力が足りぬだけなのに、神よりの使者を魔と言う。
それはいつの時代もそうであった。イエス・キリストにおいても同じであった。「神の名を語るとは」と言われた。彼は最後、十字架に張り付けになった。
ジャンヌ・ダルクという女性もそうである。そうであろう。「神の子、私はミカエル大天使より指導されている」と、「神により指導されている」と言っただけで、結果的に火あぶりの刑になった。そのような無理解、未熟さ、それが神の使者を最終的に死にやる過程を、今までが踏んできたのである。
今の日本は法治国家であり、言論の自由が認められている。だからそのように殺されることはない。そのような平和な時代に、愛の使者として、そなたたちが神の使者として、使命を果たせる時代にあることを、この道を引いてくれた者たちに感謝するべきであろう。
そのために、我らが出る前に、明治維新の者たちが出てきたのである。その明治維新の多々ある者たちの偉業を学んだであろう。霊言を通して。その中で何がいちばん大事であったか。彼らが地上に行った時は、もう少し地上的な価値により評価されていた。彼らが死して我らが世界に戻ってきたときは、神の国と呼ばれている世界に通ずるものだけで、彼らは反省を行い、彼の評価というものが決められてきた。
それをほんとうに神の尺度というもの、神の価値観によって、何がいちばん大事なのか、時代的な英雄たちであってもこのように評価されるのであるということを、今地上に降ろすことにより、神の国の尺度、価値観というものをこの地上の尺度として、価値観として、今降ろす時代にあるということを、大切なことであるということをもって、今霊言を降ろしていのである。
わかるか。
そなたたち三次元の地上の者たちが持っている価値観などは、我らが世界に死してきては何も通用せぬものであるということ。そのことを思うのならば、今神の国の価値観というもの、尺度というもの、それを今書籍により、霊言により、地上に降ろすということが、いかにいかに重大なことであるか。
神の目によって、神の子たちを見たときに、どのように評価されるか、どのようなことがいちばん大切なことであるかということを、我らはこの地上の者たちに伝えるために、こうやって霊言を降ろしている。
神の国の、神の巫女として、神々の言葉を伝えられる者はそれほどたくさんはおらぬ。しかし今、我々の神々の言葉を今伝えられる者がいる。
であるならば、そなたたちは今我々の言葉を伝えよ。
そして、神の国の価値観を、神の国の目からみた尺度というものを、この地上の価値観として、尺度として人びとに伝えていき、それがいつかこの三次元におき、地上におき、一体化したときに、この地上は神の国になり、愛の星になるのである。
地上はけっしてそんなに不自由なところではない。間違うてはならぬが、間違ったら引き返せばいい。それぐらいの太っ腹な気持ちで生きてゆけ。
間違わないこと、間違わないことばかりを恐れて、ケチくさい小さな器になるな。
間違ったっていつでも帰って来られる。なぜなら全部、神様の懐の中だから。
どこに行ったって神の国さ。下に行ったって神の国。
ならば違ったと気づけば戻ってくればよい。
よいか。
そうやって自分を限定し、囲って、小さな中に入ってしまうほうが、自らの力を引き出せず、自ら限定し不自由にすることは、他を裁くことにつながっていく。そのような気持ちで、多くの人びとを裁いてはならぬ。自分が自由になれぬ不幸さをかみしめるからこそ、その怒りが他者に対する批判に結びついてくる。
それを思うならば、常に自由であれ。常に人生を満喫して、自己限定をせず、幸せに臨んで、何ならば神の子としてできるかと、最高に自らを出せることを最優先し、そなたたちの力を出していけば、必ずや神はそなたたちに、そなたたちの本来の使命というものを現したもう。
使命が現れてきて、その自らの認識したレベルに応じて、使命というものを明かされていくのだから。その認識したレベルにおいて与えられた使命を精いっぱい働け。
そしたら、それを一生懸命したならば、それを通して学んだのならば、その上の認識力を持って、またさらに高度な使命がそなたたちに与えられるであろう。そうやって使命というものは、徐々に徐々に上に向かって、多くの者を救済できる使命が与えられるのである。
だから実力を持つには、認識力を持ち、行動力を持ち、この地上でいかにひとりでも多くの者たちを幸せにすることができるか、行動をなすことができるか。
そのことが最大の地上の者たちの修行であるということを、心に肝に銘じ、自由に生きていただきたい。