過ちから学ぶこと
オビウム 2006年10月25日の霊言
光があれば常に影ができる。当初は影の部分、一時の曇りとして存在していた。ルシフェルがサタンとして闇に落ちし時より、その影が本格的な地獄界の形成となり、今日まで悪想念を吸い取りながら拡大を続けてきた。
今の浄化の過程に入り、悪しき想念が出尽くし、その闇があればこそ、光の偉大さが認識し、学べる時。
人類は自らの自由意志の濫用にて、悪しき闇をつくった。しかれども、人類が迷ってつくった闇は、神の愛にはかなわぬ。なぜならば、我々は皆神の子であり、愛であり、光であるから。その愛の尊さと光の偉大さを、自ら為した過ちを通して人類は再認識をし、学び、親である神の愛の懐へと誘われ、戻っていくのが、今のこの時なのである。
自分で転んで汚した洋服を、泣きながら母親に、「気持ち悪いからきれいにしてよ」と、せがんでいるその姿、それが今、人類が神に対して向けている不満である。自らが汚した汚れを、「自分の手で洗い流したら、また真っ白なきれいな洋服になるよ」と教えているのがこのレムリアの霊言である。神の法である。
自分自ら汚した洋服は、あなた方自身の手で洗い流さねばならない。洗い方を忘れ、洗えば元の光の子になるということを忘れてしまった人類は今、穢れなき光の中に戻る道を教えられている。
地獄界とは、あなた方が勝手に転んでつくってしまった地球の汚れであり、染みである。誰がつけたのではない、あなた方自身がつくってしまったこの磁場を、今一度光の磁場へと取り戻し、そこにいる者たちの魂の洗濯、清らかな浄化の道を今、指し示されている。「水たまりの中で、泥の中で、いつまでもだだをこねていないで、早くそこから出てきて、自らの魂をきれいな水で洗い、両手を広げて待っている母さん、父さんのもとに帰っておいで」と言われている。それが地獄界と、地獄界にまだ住み続けている者たちへのメッセージであり、我々が今彼らに、どうしようとしているかという指針である。
誰かひとりのせいで地獄界ができたものではないだろう。ただ、闇のものでも光のものでも、連鎖していく。その闇の連鎖が新たな闇を引き込み、光の子までが闇に引きずられ、闇の拡大となったが、自らの心の内にあればこそ、地上界に肉を持ちし時に、それは闇の部分として現象化した。
天上界にいる時は皆、心に思うても、三次元の肉体があればこそ、隠していた思い、まだまだ未熟であった思い、それが形を持って映し出され、具現化された。そこがあればこそ、新たな学びもあり、あぶり出された己自身の姿を見て、魂の成長もあるのかもしれない。
神は無限の時を与えられ、無限の各自の進歩発展を望まれる。
地上界の本来の意義は間違わぬことではなく、光の中だけにいてはわからぬ、良い意味でも悪い意味でも、己自身の個性と魂の未熟さを認識することである。そのために三次元という場所に神は、愛の修行場として数々の星々を用意された。
「汚いものだから、穢らわしいものだから、すべてをなくしてしまえ」と、「それさえなくしてしまえば清らかで美しい自分たちでありうるのだ」と―――、それは本来の地上の意味ではないと私は言っている。