異言
(いげん)生きている人間が、霊的な力によって本人も知らないような古代の言葉、外国の言葉などを語ること。
特に、天上界の諸霊が人間の口を借りて語るものや、本人の魂の中にある過去世の人格が当時の言葉で語るものなどを「異言」と呼ぶのであり、地獄霊の言葉はこれには相当しない。
「異言」という用語はもともと新約聖書の使徒言行録2章や、コリントの信徒への手紙(一)12章、14章などで用いられている。ただし、聖書の中で、パウロは異言を「信じていないものへのしるし」と言い、それよりも「信じているものへのしるし」である預言のほうが大切であると説いている。これは第一から第三の計画にもそのまま当てはまる。
第一の計画の時には、霊道を開いて古代インドの言葉などを語る人が多く現れたが、それはあくまで霊的世界を信じない人に対する証明であり、第二、第三の計画で降ろされた霊言(聖書で言うところの預言)こそ、天上界の真意を明かし、信じる人にとって究極の指針となるものだからである。
また、パウロは「異言を語ろうとも愛がなければ意味がない」という趣旨の話もしているが、これは異言を語るような特殊能力よりも、愛の実践のほうが大切だという意味である。霊的現象に目を奪われることに対する2000年前の忠告は、現在においてもなお有効であろう。
参考文献
- 新共同訳聖書
- 岩波キリスト教辞典
- 高橋信次再復活3
- 心の発見:現証編