献身的な姿が愛する人を輝かせる

男性というのは「陽」のエネルギー、女性というのは「陰」のエネルギーでございます。 男性は陽のエネルギー、ご自分の使命、才能、叡智、それを通して社会に向けて、陽のエネルギーで仕事をし、才能を開花し、そして社会を積極的に変えていくという使命を神様より与えられているのです。 それゆえ理論的であり、行動的であり、陽気であり、攻撃的であるということなのです。 女性はそれに対して陰のエネルギーであります。 陰というのはけっして陽に対して陰が劣っているのではありません。 陽が陽として輝くためには、陰のエネルギーの補助がいるということなのです。 そして陰のエネルギーの補助を、「内助(ないじょ)の功」と日本神道では申します。 それはけっして自ら女性を蔑視しているのではなく、女性として殿方に対して、殿方の才能に対する、愛ある献身的な姿を与えることにより、男性をますます、より男性として光らすという、そのような愛のエネルギーそのものなのでございます。 自分が自分がと、今の女性たちは自己実現に走られておられるように思いますが、しかし女性が女性であるということを、自らを光らすということは、自分の愛を、献身的に男性に、殿方に対して捧げたときに、その男性を通して、子どもたちを通して、ご自分の陰のエネルギーが輝き渡り、周りを愛と祝福で包み、お子様たちを、ご主人様を、幸せの絶頂に導くのです。 「スピリチュアルメッセージ集58 木花開耶媛命」(2005年7月28日)より

ほんとうの美の表現者とは

ファッションという名のもとに、高価なものを手に入れること、買い物の中毒になって、 あと、自分の目鼻を変えてまで装うことをもって、美の表現者だと思うのならば、 それは大間違いだということです。 よろしいですか、違うのです。 ファッションとして、美しく装うということは、 周りに対する思いやり、愛の表現であるということなのです。 セレニティ 「ガイアの祈り」(2007年6月22日)より

女性の品性

品性におきまして、慎ましやかな、清楚な、他者に対するいたわりと、そして愛にあふれた献身的な女性らしい生き方をしている者には、 自ずとそのような謙虚さの中から醸し(かも)し出す品位というのが出るのかもしれません。 私はそのように思うのです。 ですから、内面を自分の自我我欲の中で、自己本位に生き続けていたのなら、 たとえ若い頃いかに美しい目鼻立ちであり、そして高級な衣服を身に着けていようとも、 年齢とともにその方の品位の醜さが、やはり目鼻立ちを通して醸(かも)し出されて、どんなにお上品ぶった言葉遣いや身なりをしてみたとて、 その方の醜さというもの、品位のなさというものは、見る方が見たのならば、表面から見てわかってしまうのではないかと、私などはそのように思うのです。 「スピリチュアルメッセージ集58 木花開耶媛命 」(2005年7月28日)より

装うことはいたわり

美で彩るために、神は女性をつくられました。ささやかな思いやりです。 この愛の星を彩るのは、花々の美しさだけではないのです。 年齢だけでなく、種族も関係なしに、女性は美というものを表現していく。 装うということをもって、周りの方がたに対するいたわり、励まし、生きる希望というものを与えることができる。 それが、女性を本来おつくりになった、神が期待されたエネルギーでもあるのです。 セレ二ティ 「ガイアの祈り」(2007年6月22日)より 

花がなぜ美しいか

花がなぜ美しいか?無心に咲くからですよ。 誰かに評価されて、誰かに美しいと思われたい、 そういう思いで表面をゴテゴテ飾るのは、美とは言いません。 ただただ無心に、自分の役割を、自分の存在を、でも精一杯、自分自身らしく装うことをもって、多くの方がたの目を楽しませていく。 それをもって、「美の表現者」と申し上げているのです。 セレニティ 「ガイアの祈り」(2007年6月22日)より

心の美しさ

女性の美しさというものは、心性、心根の美しさにあるのです。心の優雅さにあるのです。 女性が心の中に謙虚さと、男性に対する、自然界に対する、信仰心に対する、神々に対する、謙虚さ、美徳というものを失っていった時に、女性がどれだけ表面を塗りたくってみたところで、そこに美しさは存在しないのです。 内側からにじみ出てくるものなのです。 美というものは、内側からにじみ出てくるものなのです。 「スピリチュアルメッセージ集3 天照大神 」(2004年8月21日)より

選ばれし父母として

身障者をお持ちになるお母様方、お父様方のご苦労をねぎらう気持ちとして、わたくしは申し上げたいのです。 あえてそのようなたいへんな魂を、そういう方においても、ほとんど、たまに事故はございますけど、ほとんどの方が計画してお出になっているのです。 そういうことを引き受ける親御さんは、たいへんな徳を積まれることになります。たいへんな学びをされることになります。 忍耐というものを通して、真の愛が何であるかということを、体を持って学ぶのです。 そのような尊い修行をなさられるために、尊い魂をあなた方は預かられている。 そのような素晴らしい親御さんたちであるということを思うのならば、どんなに、たとえどのような確執があったとしても、そのような身障者だからといって、その、自分からその親であるということを放棄するような、そのような選択はしていただきたくないと思います。 それはあなた方が計画して来たのですよと、それを申し上げたいのです。 「スピリチュアルメッセージ集68 マリア・テレジア」(2005年9月22日)より

全ての子ども達が大事な宝物

けっして、ハンディキャップのある子どもを産んだからといって――。 昔で言うならばほとんどが、母親が悪いと、うちの嫁が不具の子を産んだと言われたのかもしれません。 そんなことはない。 逆に言うと、ハンディキャップのあるお子さんを、どうぞ来てくださいと、お引き受けしましょうといって引き受けられた、実に徳高きご両親様であったということ。 それだけの、ほかの方以上の並はずれた愛というものをお持ちの方であるからこそ、そういうお子様を受け入れ、お産みになってくださったのだという、そういう敬意が、そういうご両親様方に対してあってもよいはずなのです。 それと同時に、生まれて来た子どもたちに対しても、ようこそ生まれて来たねと、ほかの方たちに対して、あなたがまさに肉体ではない、魂こそが神の子であると、それを証しするために、あなたは生まれて来てくれたんだね。 世の中に、この世界の中において、生まれて来なくてよかった子など、ただの一人もいないのです。 すべてに意味があり、すべてが神が祝福してこの地上に生まれさせていかれるのです。 であるならば、神がそのようにおつかわしになった大事な神の子であると、地上の者たちも、周りの環境の者たちも、地域の自治体の国の者たちも、みんなでそういう子どもたちをともに、ご両親だけに押しつけるのではなくて、みんなでこの地上の大事な宝として、みんなで育てていこうよと。 「スピリチュアルメッセージ集51 ヘレン・ケラー」(2005年7月7日)より

結婚し旅立つ子ども達の成長を喜んで

子どもが新たな配偶者とともに家庭を持ったときに、そこに差し出がましいことを言ったり、自らの支配下に置くようなことを一切言ってはなりません。 それが、その子どもたちに対する神が与えられた自由意志であり、神性の開花を望むのであるなら、親たちも、ともにそのように霊的な成長というもの、肉体的な成長というものをともに祝う、喜ぶようなそのような親たちでなくてはいけません。 見返りを求めたり、執着の賜物、産物として子どもに接してはいけないのです。 「スピリチュアルメッセージ集60 日向」(2005年8月2日)より

親子としての絆

昔の母親はすごかったのです。強かったのです。 なりふりかまわず子どもとぶつかっていったのです。 怖いときは、お母さん怖かったのです。 そしてもっと、それで聞かなければ、出て来て最後に怖いのはお父さんだったのです。 お父さんはいつもいつも怖いのではありません。 お父さんは黙って後ろで控えていればいいのです。 お母さんが一生懸命なりふりかまわず言うときに、たとえ母親にぶたれたとしても、何されたとしても、ほんとうの意味で自分をだめにしないために、この母親は命がけでぶつかってきてくれるのだと、愛されているのだという実感さえあれば、子どもは悪くなりません。 手を上げたから悪くなるのでないのです。 手を上げたからといって子どもが急に悪くなるとしたら、それまでにしっかりと親子としての絆を築き、ちゃんと小さいときから、ぶつべきお尻とかをぶってこなかった。 体当たりで正面からぶつかってこなかった。親が逃げていた。 そのようなことに対する子どもたちの怒りがあるのです。 自分をほんとうに良くするために怒ってくれる、叱ってくれることを、子どもたちは無意識に喜ぶのです。 「スピリチュアルメッセージ集60 日向」(2005年8月2日)より

過干渉、過保護ではいけない

小さいうちはお母さんがすべてです。 小さいお子様たちはお母さんの言いなりになるのです。 そして、お父さんたちがどれだけ止めても、結果的に見栄を張ったお母さんたちは、一生懸命着飾らせて、子どもたちを自分の道具として、自分の夢の証として、子どもを飾り立てるのです。 そこに子どもたち本来の叫び、本来の子どもとしての要求、そのようなもの、すべて無視されていくのです。 でもそのうちに、子どもたちは自我が発達してきます。 己自身の誰にも嘘をつけない自我というものが、思春期を通して成長、発展してくるのです。 それが、その時期になってきたときに何が出てくるかと言いますと、自分がいくら嫌だと言っても、叫んでも、過干渉、過保護というものが今日の母親たちの欠点でもあります。 先ほど言った自己実現のための道具のための、アクセサリーとして、自分の夢の押し売りという形での、子どもたちの人生をつぶしてくるということ。 そのときに思春期に入ってから、特に女の子よりも男の子に対して過干渉であって支配的であった母親たちは、思春期の男の子たちに、暴力、家庭内暴力とか、あとは引きこもりとか、そのようなもので復讐を受けていくのです。 それが今日あまりにも、引きこもり、ニートという、そのような引きこもりの、労働意欲、学習意欲のない子どもたちを生んでいる現状であるのです。 「スピリチュアルメッセージ集60 日向」(2005年8月2日)より

親の役割とは

子どもには子どもの転生があり、子どもの修行があり、 この地上に生まれて来た目的があるのだというその個性を尊重したところにおいて、この子どもの命をいうものを花開かすために、一時育てさせていただき、そしてその子の適性、個性を磨き、見つけて、社会に向けて羽ばたかせていく、そのような役割が親であるということ。 「スピリチュアルメッセージ集68 マリア・テレジア 」(2005年9月22日)より