科学と信仰の両立
マイトレーヤー 2002年11月14日の霊言
今回の文明は、九次元霊では仏陀、イエス・キリスト、エル・ランティ、モーゼ、このような方々が主導で築かれ、研究されているので、私はあえて表に出ず、裏方としてエル・ランティの補佐役をいたしてまいりました。
このような時代に、今このような世界的危機をむかえ、かつてのアトランティスの末期にとてもよく似ているものだと思うのです。
かつてのアトランティスの時代も、行き過ぎた科学信仰が、愛を説かれたアガシャー大王を、のちのイエス・キリストを抹殺してしまうという、悲劇的な結果を生みました。
一番たいせつなのは愛の教えであると、イエス・キリストはユダヤの地において、心のたいせつさ、愛のたいせつさを教えたはずなのに、やはり、後半になって、急激に発達した科学文明の中で、今また人々は、科学信仰におぼれ、神の子としての神性を、愛の心を失ってきてしまったのです。
私はかつて、理神論というものの中で、科学というものと神の愛の心というものとが同時に存在し、その両方を追求していくことが本来の創造主のご希望であるのだと説きました。
両方を追求すれば、どちらにも偏らず、正しく進化し、成長を遂げていくことができるのだと、そういう悟りの段階論を教えたものなのです。
仏陀もおっしゃられたと思いますが、何事も中道だということなのです。今日的に言うならば、バランスというものがだいじなのです。
どんなに愛の心を持っていても、古代の不自由な文明の中にいては、やはりその先の進化発展は人類には起きないのです。
やはり高度な科学技術を持った星々の方々が精神的な進化を遂げ、この宇宙の指導者となっておられるのです。
かつてエル・ランティが、ベーエルダ星から大挙してこの地球に肉体をお連れになった時も、相当な科学技術があったればこそ、肉体舟をこの地球に持って来るという快挙を成し遂げられたのだと思います。
科学を敵対視するものではなく、進化発展させていくということが、けっして神の御心に逆らうものではないのだということを、その時私は説いたのです。
原始的な信仰の中であぐらをかいていたのでは、地球文明としての進化発展はなかなか望めなかったのです。
しかし、後世の人々は何を勘違いしたのか、科学文明こそがすべてであり、利便性を追求していくことがすべてであり、結果的にこの目に見える地上のものだけが、人生の生きる目的のすべてであるという勘違いを起こし、神の心を忘れ、信じ合う心、愛し合う心、許し合う心、地上の人間たちを越えた我々神々を崇拝する謙虚な心、そのすべてを忘れ、この地上の文明に驕り、浸りきったのです。
この地球という惑星は、目で見れば、物質の固まりにしか見えないかもしれないけれど、この物質界に表した神の想いの具現化としてのお姿であるということなのです。
石ころひとつ、草ひとつ、水一滴にいたるまで、それはすべて神のお姿であり、神の血液であり、神のエネルギーの表れた姿なのです。
すべての物質に神が宿ります。
いかなる物質といえども、すべて神の子なのです。