メッセージ
一番肝心なことというのはさっきから言っていることです。それは宇宙を見渡しても多くの進化した星の中において、多くの方たちが愛のために、愛により、愛という神のお心を表現して、ただそのまんま生き続けている。
そしてみんなでできることを互いに手を取り合って、共に助け合い、役に立ち合い、自分の星が調和されたのなら、自分たちの家庭が調和されたのならば、ではほかの未開の土地に行って、その星にも愛を分け与えてこよう。別の星、別の銀河に行って、神の愛というものを表現するため、達するためのお手伝いをしに行こうという、そのような気持ちにまでなっていくのです。そこまで愛というのは分かち合っていくことです。
彼らは分かち合うために義務のように、ノルマのようにやっているのではないのです。
分かち合っていくこと。
少しでもこの神の愛の感動というものを、多くの方がたにわかっていただくということ。
そのお手伝いをするということ。
そのこと自身が、自らの喜びとして、自らが感動する生き方として、自分自身がその生き方を望むからこそ、誰に強制されるわけでもなく、多くの方がたに、遥か遥か、何光年もかけた遠い惑星にまで行って、まるでお節介かのように愛を分け与え、その惑星の進化のお手伝いというのをしながら帰ってくるのです。
わたしたちのような星は、そういう意味で言うと、たいへんお節介な星かもしれません。でも愛というのは基本的にはそういうものなのです。
自分自らが幸せであるのなら、少しでも今不幸せな人を幸せにして差し上げたい。そのお手伝いをさせていただきたい。そのように望むものなのです。
そしてその方たちがにっこりと笑って、神の子としてのご自分たちの使命に気づかれ、輝くような笑顔で、幸せな顔を見せられた時、「はあ、自分たちはいっしょに生きて、この方たちといっしょにお手伝いをさせていただいて、なんて幸せであったのであろうか」と、「神よ、ありがとうございます。わたくしたちをお創りたもうて、ありがとうございます」という感謝の中で、わたくしたちは喜びをもって、自らの使命を果たしていくのです。
あなた方の、あなた方と言ったら失礼です、わたくしも地球の神ですから、この星がある程度の水準に行ったとき、まだまだですけれども、まぁあなた方には、「中学生レベルになりなさい」というふうなことを言われているかもしれません。でもこの地球が進化を遂げ、中学高校大学、そして大学院レベルになっていった時に、その時にこの地球においても、また他の惑星に行って、その惑星の進化のお手伝いをするための、そういう教育的なグループというのが、組織されていくことがあると思います。
そのような時に、今あなた方が、いろいろな惑星の人たちから、ひじょうな援助を受けて、今この地球というのがあるのです。その恩を、その愛を、他の惑星に行ってお返しに行けるような、そんな地球に早くなっていけたら、そんなふうに進化できていったら、なんて地球は幸せであるかと 、わたしたちは幸せであるかと 、そのような日が来ることを夢見ながら、今の地球進化のために頑張っているのが現状であります。
愛という観点において、自らたちが、夫婦愛とか、隣人愛とか、他国に対する愛とか、そのようなものすら今築けず、自分たちの家庭は地獄のようになり、夫婦は離婚をし、子殺しが横行し、そして自分たちの地域共同体においても、脇で孤独死していく老人たちを助けることも厭(いと)い、そしてもっといくなら自分の国は愛してもほかの国は愛さない。そして国境意識、民族意識という偏見の中で、ましてや自分たちの宗教こそ、自分たちの神こそがすべてであるといって、いがみ合い、殺し合っている。それがまだまだ地球という野蛮なレベルでの話なのです。
そこにメスを入れていくには、まず一度愛のもとに戻ろうと 。
愛という大調和の中に戻っていこうと 。
愛というのは分かち合いであり、助け合いであると 。
そしてその愛こそが神のお心すべてであると 。
そのことをほんと気づかねばなりません。
それには、制約されたこの肉体だけの数十年がすべてであると思うから、ある意味で刹那的(せつなてき)になり、生きているうちにすべてのものとか、すべての快楽というものをむさぼっていくことが、悔いのない人生なのではないかというような、大きな誤解をしてしまうのかもしれない。
でも時の流れは遥か遥か、何億年という、もっともっと昔の意識を持てるものであるのならば、何兆年というそのような深い深い意識の中において、わたしたちは記憶を持っていくことができる。
逆に言うと、その時に逃げたとしても、その時に死んで、自殺して逃げたとしても、その人生というのはそれで終わりになってくれるほど甘いものではないのです。
逆に言うと、肉体が終わったからといって、それで自分が逃げられるかといったら、それは逆にあちらの世界に帰って、何倍もの苦しみとなって、自分のやったことは因果律の中において、すべて自分に戻ってくるという結果をもって、すべて自分が引き受けて、自分で乗り越えていかなければならない課題となっているのです。
そのような因果律を考えるのならば、今はこの肉体あるうちに、あなた方は何をするべきなのか。
人のことを悪く言ったり、人のことを憎しと思うことよりも、ただそれが最後は何かを守るために、人はそのように悪の心に身をゆだねるのかもしれないけれども、でも守るものなど本来は何もないのです。
肉体が最後殺されるから、相手を殺したのか、そこが究極かもしれませんけど、それなら殺されればいいのです。
別に肉体自身なくなっても、もしそれで愛する者との別離があったとしても、それは一時(いっとき)の別離なのです。そのために自分自らが殺人者になってはいけません。
それは、他者を傷つけてまで守るほど、肉体というのは価値があるものではないのです。だからといって、むやみに自分から殺されればいいといったらそういうことは嘘です。それは、感謝をもって肉体を、修行の大事な船として、肉体舟として、大事にしなくてはなりませんよ。
ですけれども、ほんとうに守るべきものというのは、自らの神性、神の子としての愛の、穢れのない神の子としての誇りであるということ。
そのことをほんとうにあなた方がわかったのならば、今肉体を持っているこの三次元において、あなた方は何をなさいますか。どのように一瞬一瞬という時を使われますか。そのことを考えて生き抜けばよいのです。
何かを守るため、家、屋敷、財産を守るため、果ては愛する妻を、愛する子どもを守るためといって、多くの正義のような美談というのがあるのです。でも、子どものため、妻のため 、守らなくていいというのではないですよ、男なら守ってほしいです。守るべきであると思うし、正義という名のもとに守るべきであると思います。
だけれども、ほんとうに大事であるのは、神の子として今わたしたちが使命として何をやるために命を張るべきなのか、そのことをしっかりとあなた方が、見つめるということが大事なのです。
そのためにもし肉体を、もしお金を、もし世間的な地位を、よろしいですか、職業を、そのようなものを守るために、他者を傷つけたり、他者を憎む気持ちを、憎しみを持つのであるのならば、それはひじょうに取り返しのつかないことになるのです。
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- 2002.11.14 マイトレーヤー