現代において信仰がいかに大事であるか
ゾロアスター 2004年7月22日の霊言 『地球最高神九次元霊1』に掲載
このたびのORの不祥事における、天上界の意向を伝えたいと思い、私は今日出てまいりました。
彼がなしたことは、我々指導霊においては、確かに皆堕ちる危険性において、平等にあるものではあるのだが、彼自身が犯した、彼自身が欲望に負けたという姿、それにおける罪はやはり大きいと理解します。
間違っているものは間違っているし、我々においてもそれで彼を責めるのではなく、我々の責任の所在をしっかりと見つめ合うということでなければ、これから先我々の指導も、地上の者たちにとって信頼あるものとならないし、我々においても、責任の決着をつけていかねば、このようなことを再び犯さないという学びにすることもできないと理解しているのです。
確かに九次元指導霊であっても魔にそそのかされ、自己の弱さにつけ込まれ、このようなことが起こるということはあるのだが、このたびのOR自体が持ち合わせていた性格的未熟さゆえの宗教指導者としての心構え・・・、そして、信仰生活とともに培われるべきであった幼少期からの神仏に対する謙遜と献身の姿というもの・・・、神を畏れるというその根本的な修行形態が、幼少期からの彼の姿を見ていると、確立されていなかったように思うのです。
信仰生活というものが、神を信じるということが、どういうものであったかということを形成されるべきときに、そのような環境にいなかった。
自分の野心による学問ということにおいては彼は努力したであろうが・・・、まず、自らをつつしみ、神仏の前にぬかずくという、幼いときからの信仰生活の核があってこそ、その後の多くの膨大な知識と、書物による多くの文献というものが、彼の知恵の中で、神仏の知恵として、活きたのであろう。
しかし、そこの根本が確立できていなかったがゆえに、彼の中には、知でのみ神を語るという、ひじょうに、上滑り的な、表層的な、知の理論における信仰論というものしか語れなかった。そのような原因を作ったのだろうと私は思う。
神仏というものは、信仰というものは、心で、魂で熱く神と向き合うものなのである。
心で、魂で、ハートで神へ向かっていったときに、神の愛というものが、神の光というものが、我が血潮の中に流れ入り、自らを知らしめる、地上の生ける神の代弁者としての使命を果たすことができる・・・、
烈火のごとく体中から神の血潮がほとばしり立つような、神の使者としてこの地上の使命を果たすことができるのである。
その熱い心情を抜きにして、表面的な知の理論だけで、神を語ったとて、誰も神を語れる者はいないのだ。
信仰において大事なのは知の理論ではなく、己一人ひとりの心の奥底にある、神の子としてのおのが魂の本流に、天上界の神の思いを直結させたときに、地上と神仏との間のパイプが開かれ、神からの熱い血潮が、神の英知がとうとうと地上に流れ降りるのである。
受け止めるのは、魂なのです。
神の子としての心性に感応した我らの魂が、神の高貴さ、神の偉大さ、神の荘厳さに触れて、おのが魂を震わせ、その熱き血潮を我が体の中に表現せしめ、神の生きた存在として、この地上に生きた存在として神を表現しうる。
それこそが神の代行者であり、神意の担い手となって、地上の者たちに神仏のメッセージを伝えることができる。