「光一元」という神のまなざし
谷口雅春 2005年4月30日の霊言 『日の本の神ここに立つ』に掲載
そなたたちは、神が愛の法則であるということ、宇宙を貫く愛の法理念そのものが、本来の神の根源であるということをもう理解しているけれども、未開の者たちにおいて、学問がない者たちにおいて、知において認識力の発達していない者たちにおいては、一度にそのような高き高邁(こうまい)な神理を伝えたとしても、それはけっして理解されず、咀嚼(そしゃく)されず、人びとを逆にいたずらな混乱に陥れることである。
それゆえに、人びとの段階に応じて神々は、天上界の救世主の神と呼ばれている高級霊の方がたは、数々の計画を打ち立てられ、人びとに噛んで含む、幼子に口移しに神理の言葉を伝えるように、今まで数々の段階を経ながら、やっと今日の状況において、あの救世主界の方がたにおいても、親神であられるという根源神を表すこの機会を、今やっと持たれたということ。
それを、レムリアを通して伝えられてきている、その最終的な集大成をもって「地球の法」と言い、それが、その地球の法のレベルが、対外的な宇宙空間の他の惑星の者たちにとっても、「宇宙の法」としての格を持つものとして、地球の法がイコール宇宙の法として、そして地球自体が宇宙連盟の一員として認識されていく、その時期に値したということをもって、今この集大成の法が説かれているということ。
だから、民族神と呼ばれてきた神格持ちし高級霊の者たちと、宇宙を貫く愛の法則であるという根源的な愛の法理念というものは、けっして神が表されたひとつの神の側面の一部、神が表されようとした多面的な神理の実体であって、けっして矛盾するものではない。
それぞれが民族において、地域において、それぞれの神々たちが工夫を凝らし、自らが責任を負うエリアにおいて、地域において、様々な宗教と信仰において多くの人びとを指導してこられたというのが実態なのである。
だから、けっしてそのすべてが否定されるものではない。ヒンズー教においても、仏陀の説かれる法においても、イエス・キリストにおいても、ユダヤ教においても、すべてがそれぞれの神の神理の分け御霊(みたま)として、分光として、多いなる神の表れの一因として行われてきた結果であって、けっしてサタンによりどうのこうのということではないのである。