救世主もひとりの血の通った人間であった
バプテスマのヨハネ 2006年5月27日の霊言 『ファティマの真実』に掲載
今、世界的に数々の伝統的宗教が、その存在意義を問われ、大きなうねりの中でひとつのるつぼに投げ込まれ、大いなるひとつの地球の教えとして、一体になろうとしています。
宗教の中には、みなどれも素晴らしいものがありつつ、かつ、矛盾した点をも抱えているということが、我々の世界から見た真実であるのです。キリスト教、仏教、イスラム教、すべての中における、今、その内側にある膿を徹底的に洗い出す、流し尽くす、吐き出す、それが今の時代の中における役割でもあるのです。その中でやっと来たのが、キリスト教の洗い出しであるということなのです。
あなた方は、もう伺っているはずなのです。九次元自らの方々からのメッセージをあなた方が受けながら、九次元の方々であられても、肉体を持つならば、ひとつの人格霊としての修行を果たされている、ご自分自身の修行もある存在であるということ。
みな、神の子であるというのは、イエス・キリストだけではなく、マホメットやモーゼたちだけではなく、神の子というのは、みな、人格を持ち、肉体を持ち修行をする、あなた方も含め、すべての九次元の救世主界の方々もすべてを含め、神の子としての地上での修行があるということ。その意味では、みな、平等であるということを、あなた方は今回、学ばれているのではないでしょうか。
その意味において、我らがイエス・キリスト、バプテスマのヨハネとして出たときにお仕え申し上げた、あのインマヌエルと呼ばれた方であったとしても、あの方も大いなる救世主としての使命を持たれて、この地上で大いなる役割を果たされました。でもやはり、ひとりの人間として、若者として、青年として育たれる中においては、人間としての苦しみがあり、学ぶことがあったということなのです。
でも、それは当たり前のことであり、人間としての喜びも、悲しみも、苦しみも知ったらばこそ、我々のような、平凡な人間たちの心を、どのように導いたらいいか、我々の気持ちをほんとうに思いやってくださる、そのような愛の法が説けたのだと思うのです。そのためにも、神の子として平凡な人間、インマヌエルという存在の修行というのが、どれだけ貴重であったかということ。
それは、仏陀における、釈迦族の王子として生まれた、ゴーダマ・シッダールダという方におかれましても、同じであると思うのです。前半、カピラ城におかれての彼の人生は、その後の法を説くためにおいて、大いなる肥(こや)しとなったはずなのです。人間としての情愛、男女の愛、子どもに対する愛、そういうもの、社会におけるさまざまな権力抗争、そういうものが、その後、仏陀の中に、法を説かれるときに、大いなる慈しみとして、慈愛として、慈悲として、実を結んだ法を仏陀が説かれる、そのような原動力になられたのです。
だから、救世主が一人の人間として存在するということ。人間としての苦しみ、人間として生きたということは、けっして、恥ずかしいことではないということです。それは当たり前のことであり、逆に、それを神格化し、絶対視し、まるで聖母マリアのところから、処女受胎しながら特別のように生まれたという、そのような誕生秘話というのは、仏陀においても、すべて後の世に、神格化するために、地上の者たちがつくり上げた寓話でしかないのです。
そのようなものの中から人々は、もう、人類は解放されねばならないということです。どんな、救世主界の方であろうとも、一個人としての修行をしておられる、貴重な人生を修行しておられる、一人の神の子であるという視点において、だから、間違いもすれば、悲しみも、喜びもあるのだということを、我々人類はもう学ばねばなくてはいけないのです。
そのことを、今回、提起するためのものでもあります。
イエス・キリストは言われたと思うのです。「わたしは地上に平和をもたらすのではなく、混乱と争いをもたらすためにやって来たのである」と。
それはどういうことであるかと言うと、古いものの因習の中でつつがなく暮らしていれば、けっして混乱はないのです。でも、常に新しき時代の幕開けをし、新たな真実が説かれ、新たな救世主が出るというときには、常に、その古い形骸化した宗教に一喝を与え、古い迷妄な、無知な教えに鉄槌を下し、打破し、新たな文明の夜明けを、新たな世界観というものをもたらす、そのようなことが必要になるのです。そのためには一時的な混乱というもの、争いというもの、互いの憎しみというものを招くかも知れない。でも、それは古きものから、新しきものへ成長していく、時代の大いなる転換点の持つ苦しみ、時代の苦しみかも知れないのです。それがイスラム教だけではなく、今回の、このキリスト教にもあるということなのです。
事実を事実として認めることができない。彼らの抗議デモを見ると、ただただ、イエス・キリストを神の子として祀(まつ)り上げ―――。それをすることで何になるのか。天上界にいるイエス・キリストに対して忠誠を尽くしているつもりであるのか。
いえ、違う。
それは、彼らは自分の気持ちを落ち着かせたいためだけなのです。自分たちが納得したいだけなのです。そのために、イエス・キリストが結婚していては困るし、イエス・キリストがマグダラのマリアと結婚しても困るという、そういうことなのです。
事実は事実として、違うかも知れない。でも、イエス・キリストという存在を、救世主でありながら、一人の人間として、血の通った人間として描こうとした、彼らの勇気にわたしは拍手を贈りたいのです。
そして、そういう認識を人類は、もう持たねばなりません。
九次元の十人の方たちが、今回、あなた方を通して、これだけのメッセージを送ってこられております。それは、今までは、かつて根源神と呼ばれ、天上の上で、お姿すら、名前すら呼ぶこともかなわない、畏れ多いと言われた方々なのです。その方々が、直接にあなた方を通してメッセージを伝えてきているということ。
それはもう、天上の上の神々、神の中に埋もれているものではなく、あなた方と同じ神の子であるよと。
あなた方よりちょっと先輩なだけな、修行を先に進んでいるだけの、地球を愛する指導者であるのだよ。
あなた方の友であるよ。あなた方の仲間なんだよと。
だから、私たちと一緒に手をつないで、新たな時代をつくっていこう。新たな文明をつくっていく、次の地球の時代をつくるために、天上界、地上界ともに手を取り合って頑張ろうではないかというメッセージを、天上界の方々はあなた方に必死に伝えておられるのです。それ以外の何ものでもないのです。
自分たちが悟りすまし、神の座で胡坐(あぐら)をかくわけではないのです。それを皆さま方、もう、わかってほしいのです。
それに対して、事実は事実として認められない者たちの最後の反乱が、イスラム教においても、キリスト教においても起きているということなのです。
だからこそ、だからこそ―――。
わかりますか。
あなた方の運動が必要だということなのです。
あなた方が、天上界のメッセージを伝えていただきたいのです。九次元の方々がどのような思いでおられるのか、真実が何であったのか、真実を真実として知らないからこそ、あのような無知な、宗教同士によって争い合うような、地球を傷つけ合うような争いが、今、今日(こんにち)、行われているのです。
真実を知ることがあったのならば、そんなことはつまらないことであると、抗議デモだけではなくて、イスラム圏とキリスト圏との争いが、この地球を滅ぼそうとすらしている現実を見ているのならば、あなた方の中にある認識、その神からのメッセージ、あなた方にしてみたら、もう、当たり前になっているかも知れないけれども、九次元の方々がどのような存在、どのような思いで、地上の者たちを見ておられ、メッセージを命懸けでされているかということが、地上の者たちに伝わったときには、今、ことごとく争っている者、今、このような矛盾で吹き出しているものが、すべて消えていくのです。
そのためにも、どうか勇気を持って、レムリアを通して、我々のメッセージを伝えていただきたいと思います。
今の時代、最後、膿出しなのです。今まで溜め込んできたもの、汚いもの、間違ったもの、そういうものは今までの時代の中では、まだ卒業できない過程として、それを通して、ひとつの方便として、キリスト教も、仏教も、神道も、日本神道も、イスラム教も学んできたのです。地球の方たちは学んできたのです。
でも、もうそれを卒業し、そして、それが時代の中で形骸化し、ひとつの時代の膿として、悪いものが溜まったときに、最後、新たなものをつくりだすためには、ひとつの、破壊的に見えるかも知れないけれども、膿出しの作用をして、そして、ほんとうの意味で、膿を出し切った後に新たな時代の夜明けが来るのです。
そのための、ひとつの問題提起であるということです。
それが、けっして、抗議運動があるから悪いことであるのではなくて、ひとつの大きな時代の中の、地球の今の時というものを考えたのならば、こういう問いかけもあるということ。クリスチャンがもっと正面から、自分たちの救世主が、本来は神の子であったということをもっと認めねばならない。
なぜなら、インマヌエル・イエス・キリストと呼ばれた方は、もっともっと血の通った方であったということです。
ただ、激情型のところもあったかも知れない。でも、愛の深い方でもありました。恋もなさいました。そういうところがあってこその、インマヌエルの、イエス・キリストの御生涯の真価というものがあるのです。業績というものがあるのです。
それを塗り替え、削除し、勝手にひとつの神話のようにつくったのは、地上のキリスト教会の者たちではないでしょうか。
聖書の中で多くのことが削除されています。もともと書かれていたことが、みな削除されたのです。
彼が三十歳までのことを、ほとんど書いていません。それ以後のことも、ほとんど削除されているのです。それは地上の者たちが、イエス・キリストという者を絶対視する、させんがために、都合の悪いもの、神格化できないものを、みな削除したという歴史があるのです。そして、それ以外にも、つくり変えていったという歴史があるのです。
もう、そのような無知蒙昧なものの中で、真実の神の使者としての役割というもの、神の思いというもの、天上界の方たちの思いというもの、指導者としておられる九次元の、インマヌエル・イエス・キリストの思いというものをほんとうに理解する、今日(こんにち)の姿というのはないと思うのです。
それをほんとうに理解してほしいから、けっして、祀り上げた姿なんかで自分を好いてもらっても―――。
好かれなくてもいいから、自分のありのままの姿を通して、私を神の姿の代弁者として、あなた方と同じ神の子として、私を見つめてごらんと、大いなる愛の中で、インマヌエル・イエス・キリストは地上の者たちにメッセージを送っているのです。
上に行かれれば、行かれるほど、自分を買いかぶったり、自分をそれ以上の者に祀り上げようとする、そのような思いというのはなくなってくるものなのです。今までは、その衣を着ることも、ひとつの、人類を指導するという意味においては、必要だったかも知れない。
でも、今はもう、そんな必要がなくなったから、神々と呼ばれていた方々は、その衣を脱ぎ捨て、ひとりの人格霊、人間として、神の子の仲間として、地上の者たちにその姿をさらけ出そうとなさっているのです。
そのために、今回の、天上界で組まれたひとつの試みでもあります。キリスト教霊団の方でつくった、ひとつの、仕掛けた今回のプランでもあるということなのです。そこから、人類は学んでいただきたいと思います。
本来の姿というもの、それはレムリアで説かれている神理と少しも矛盾はしないと、わたしは信じます。天上界の方々を、どうか信頼して、天上界をひとつにし、そして地球をひとつにするために、皆さま方に力を貸していただきたいのです。
自分たちの救世主が絶対であり、自分たちの宗教だけが絶対であるなどと思っている限り、地球はひとつにはまとまりません。愛という、神の宇宙の根源的な思い、神のエネルギーに一体となって、ひとつにまとまっていくには、宗教という枷(かせ)を越えて、自分たちの救世主という枷を越えて、大いなる神の子としての、統合されたひとつの認識の中で、みなが手を取り合い、魂と魂で信頼関係を結び合い、ひとつになること以外、この地球を愛の星としてまとめ上げる道はないということなのです。