もっと自由に、もっとダイナミックに」
ピカソ 2006年8月12日の霊言 『天界の経綸』に掲載
わたしがキュービズムを出したときにおいても、わたしの私生活においても、そして画家がああいう生活をするということに対しても、ひじょうに批判的なもの、世間の評判はたくさんあったのです。画家というのは貧乏で、芸術家の中においては、とってもアーティスティックに生きるほうが、美学的にもいいというふうに、やっぱりその時代のヨーロッパでもあったということから考えると、わたしのような生き方は怠惰な生活であるということで、やはり、非難も受けましたし、やはり幾度となく型破りの恋愛をしていくということも、ひじょうに眉をひそめられていくことでもあったのです。
でも、わたしは負けなかった。それはわたしが、わたし自身の魂に正直にならなくては、わたし自身の中から出てくるクリエイティブなパワーというのは表現できなかったからです。それをなぜわたしが言うかというと、あなたがたおひとりおひとりの力を、これから先、出していかなくては、エル・ランティが言われたようなことは、実現不可能であるということを言いたいのです。
どうもあなたがたは、前回のK会においても、お坊さんばかり多いから、道からはずれないように道からはずれないようにばかり思うから、型破りなパワーというのが出てこないように思うのです。いいじゃないですか、人と違ったって。
わたしや、自殺をしたゴッホにしても、みんな下の世界に帰っているかと言ったら、帰ってやしないんです。地上に生きている間にどれだけ神の思いというものを表現することに、短い地上の命であろうと、長い地上の命であろうと、自分の信じた仕事をやり続けたか、それだけが、こちらの世界に帰ったときに評価されるのです。そのときの乗り物がたまたま数十年、あなたがたの肉体を持っていたというだけであって、その終わり方なぞはそれぞれが決めればいいことで、それを神がいちいち裁くわけがない。もっと自由になっていいということを、それをわたしはあなたがたに伝えたくて今日来ているのです。
そのパワーがない限り、道なき道をつくっていく、革命を起こしていくなぞというそのような大それた歴史的事業は果たしえないのだということ。
わたしは少なくとも、わたしの人生を愛しました。そしてわたしの仕事を情熱を持ってやり続けてった。ナチからいろいろ言われたときにおいても、わたしはけっして自分の方針は曲げなかったし、わたしは自分の作品をもって我が人生の主張を押し通したし、キュービズムでおかしな絵を描いてると散々批判があっても、わたしから見ると霊的に見た世界を表現することに、たとえ、後半それで批判され、収入がなくなってきたとしても、それは確固としたわたし自身の芸術的表現であると言って、引かず、仕事をやり続けたということがあります。
あなたがたもその「覚悟」を持ってほしいのです。
先ほどいいお話をしておられましたけれども、迷ったときは原点に戻ることです。何をするためにこのレムリアがあったのか、何のためにこの第三の計画、レムリアがこんな思いをして立ち上げて、数々の裏切りと苦難と、魔の攻撃をかわしながらここまでやってきたのか。わからなくなったら、原点に戻ることだ。第三の計画を実行し、天上界の光を、法を地球の裏側までやって、新しい神の子としての時代を創っていく。新たな地球時代の、愛の星としての夜明けを築くために、仏陀の仕事の残りをやるためにあなたがたは仕事をしているのではないのか。
その本筋を忘れて、細々な瑣末的(さまつてき)なことに気を取られて、ほかのことを一生懸命誠実にやろうとして自分の自由を奪い、自分自身を魂の牢獄の中に閉じ込めて、正しく正しく間違わないように生きることだけにおいて、なにが大きな改革者としての仕事が為せようか。
そのダイナミックさ、自由さ、パワフルさ、それが今欠けてしまったということなのです。それなくして、エル・ランティが発せられた本来の進軍は果たしえないということ。そのような奇蹟がどこにでもかしこでもたいした腹の括らない連中ができるぐらいなら、とっくにこの地球はユートピアになっているであろう。できないではないか。数々の魔の攻撃の中で、どうしてこの奇跡的なこのグループが残っているか。それが最後の地球意識の、地球系霊団の頼みの綱であるという天上界の必死な願いがわかっているのならば、命懸けになってこのレムリアの救世計画を実行するために、頑張るべきではないかとわたしは思う。
それと、O氏が出てたときに、緑色の光線のトップは老荘思想であるというようなことを言っていたと思います。でも本来のトップは、緑のトップはマヌ様と言われる方です。それをなぜ隠していたか、それをわたしは今明かしたいと思うのです。
それはマヌ様と上の方との取り決めにあって、万が一、第二の計画であったO氏のK会がだめになったとき、そのときに、その仏陀であっても、エル・カンタラーであっても明かされてなかった真実を明かすことによって、第三の計画の正当性というものを、信憑性というものを明かすために、この者をいちばん指導するはずであったマヌ神というものが、一切姿を彼の前に現さなかったというのが事実であるのです。
そして緑の光線のトップであるマヌ様とゼウス様という方がたが中心になって、今回の第三の計画を指導し、応援してくださっておられます。そして我々もご存知かもしれませんが、芸術家の村というのは、すべてが緑色の光線、バリエーションはありますが、緑色の光線の中に生きているのです。
あなたがたはこの方の霊言をどう思われるか。日本神道やデルフォイの神託を受けるただの普通の霊媒的な巫女さんと同じであると思うか。
わたしは彼女の霊言を聴いてるといつも思うのだけども、彼女の霊言は、この方の霊言は、「芸術」なんですよ。我々も絵を描くとき、音楽をとるとき、ひじょうに霊能者が多いのは芸術家でもあります。神のもとにコンセントを差し込んで、エネルギーを受けながら、インスピレーションを受けながら、我々は自分たちのそれぞれの表現手段を通して、神の思いというのを表現していくのです。そういう意味において、彼女はある意味で女優のように、神から受けた我々のさまざまな個性と息遣いというものを、その身体を通して、その言葉を通して忠実に表現して見せてくれている。だからこそ、O氏がひとりでなくては取れなかったこと、多くの人々に対して一切見せなかった霊言収録というものを、この者は人がどれだけいてもその前でやれる。それはこの者にとって霊言を取る所が「劇場」であり、あなたがたが「観客」であり、そのあなたがたに神の思いというものを自分の身体を使って表現していく。見せて、神の息吹というもの、神のエネルギーがこんなに素晴らしいんだと、そういうことをあなたがたに直に表現して見せてみせる。そのような、ある意味で言うと、神の国の「女優」であるのですよ。
だから、とってもアーティスティックなものが、この人の中にあるということ。だから、単に普通の白装束を着た日本神道の巫女さんたちとはひじょうに違う。それはどういうことかと言うと、芸術家としてのハートにおいては我々とひじょうに同じものを持っているということ。
それはどういうことかと言うと、ゴッホやベートーベンやほかの人たちを見てもわかるでしょう。ある程度の霊域以上から引いてくる芸術家というのは、みんなとことん形にはまるのを嫌がるし、自由というものがバックグラウンドにないと、自由に自分自身の身体を使って、技術を通して表現することができない。作品を出すことができない。そういうことがあるのです。
だからほかの人以上に自由を望みたがる。でも、一生懸命本人は世間の普通のお母さんになろうとする。妻になろうとする。嫁になろうとする。そこに、はめているところの中で、本人がひじょうに苦しくなってきてる。そういうところがあるでしょう。わたしが言いたいのはそういうことなのです。
霊言を取るときにお酒を飲んでたら取れないとか、旨いものを食べていたら、仏教者、修行者としては失格だとか、女に触っただけで地獄に堕ちるとか、あまりにも無知蒙昧な神の国の神理というものが、まことしやかに語られてきた。それは神の子としての、まだまだ認識レベルが低かった。この地球時代の、そういう遺物であるとわたしは思うのです。
本来はみなとても自由な、神はとても大らかな、そしてどんな生き方をしようと、どんな挫折と思えるような人生であっても、自由意志の中においてあなたがたが選び取った人生は、どんなことがあったにしてもその本人にとっては最大の学びであるということ。遠回りをすることが逆に人の喜び、悲しみを肌身で分かり、そして遠回りをしてきたからこそ、自分の人間としての器を広げてくれるということがあるではないか。
優等生として、いつもいちばんの近道で自分自身だけが素晴らしくなるような道を近道で歩んできた者は、やはり人間として魅力がない。人の間違いを許せない。そして人のおだてに弱い。悪い女といい女の見分けもつかない。そんなことで結果的に足を掬われて、ほかの者たちと同じところに堕ちてゆくのです。
ですから、あなたがたの中で優秀であるとか、そういうことがけっして人生の勝利の原因ではないということ。いちばん大事なのは、魂の胆力をつけるということ。
どれだけ多くの人を愛していけるか。
どれだけ自分の気持ちに、自分の、神より創られた神の子としての自分自身の本性に正直であるか。忠実であるか。
そしてそれを表現するときに、どんな批判があっても負けないだけの不屈の勇気を持てるか。
そして自分の個性を表わし、自分がこれぞと思った仕事に対して、命懸けの情熱を持って、その仕事を持って、この地球を世界を変えていく、それが、自分が創造された神に対する最大の恩義で、お返ししていく感謝の表れであると信じて仕事ができるか。
あなたがた本気でそう思って仕事をしたことがあるかとわたしは言いたい。
その情熱だけが、あなたがたの霊格、あなたがたの評価に、自己評価、そして神の国の評価に適うのであるということ。そのとき、ひょっとしたら枠からはずれて、世間から見たら後ろ指を差されることがあるかもしれない。でも、そんなことはなんだというのだ。わたしたちの世界になれば、人から後ろ指を差されることよりも、神の子として、神の使者として最大のいい仕事をすることのほうが、優先していくのです。それを、仕事をすることが、自分以外の多くの人々を愛していく、その道になっていく。それこそが自分が生まれてきた、創造された本来の使命であり、喜びであるということを知っているから。
家族というのは地上でいっとき縁を結び、共に成長し修行するために与えられた者たちなのです。でもいつかはまた別れていき、それぞれの修行がある。
でも、自分自身に不正直に生きた者は、自分自身の人生に対して償わなくてはいけないのです。自分自身からは永久に逃げられないから。自分自身の個性の中で、自分自身に忠実に生きるということ、いい仕事をするということをもって、あなたがたはたぶん、魂の安らぎというのを得られると思うのです。
ましてや、この今の第三の救世の計画、地球霊団、地球の存亡を賭けた計画ではないか。そのときにあなたがたは何をそんな日和見的な、一個人主義的な愛着に応じたことだけで自分の魂を、そして仲間のことも考えようとするか。そのような小さな小さな思いが、レムリアを爆発的に世界に広げていくエネルギーを奪っているものであるということ。
わたしはあなたがたに言いたいのです。あと生きてたかだか数十年ではないですか。どんだけ生きたとしても、この数十年をどれだけ命懸けで我が身の幸せを捨てて、他者からたとえ魔女と言われようと、悪魔と言われようと火あぶりにされようと、命を懸けてこのレムリアの動きを、計画を遂行するのだと、広げていくのだと、捨て身の命懸けの行為がみなひとりひとりの中に芽生えないのであるのならば、このような状況から地球を救っていくような、この救世の計画の成功はないとわたしは申し上げたい。
地上に残っている数々の、数少ない者たちを見ていても、最後、数が少ないからこそ、形勢逆転をして最後、勝利に導くのであるのならば、あなたがたの勝利の女神の後ろ髪を引っ張るのではなくて、背中を押してあげてほしい。そしてあなたがたも共に、その自由への、神の子として自由を取り戻す、神の子としての人権をも取り戻していく道を作るために、今たいまつを高く掲げて進むべきではないのだろうか。わたしはそう思うのです。
もう、つまらない既成概念にとらわれることなく、自らの魂を封印することなく、もっとみんな自由に、このピカソが、パブロ・ピカソが下に堕ちてないんだと。こんな自堕落な生活をした、人から見たら気違いであるかのように思われたわたしでも、ゴッホにおいても、下に堕ちてないんだという、ただひとつ自らの神性に忠実に、自らの神の子としての仕事に、少なくともゴッホにおいても、ベートーベンにおいても皆命を懸けて仕事をしたというその一点において、私生活はすべて帳消しになっていくという、それぐらいの神は大きな大きな思いで、わたしたちを愛して見守ってくださっている存在であるということ。そんなケチくさい神ではないのだということを、わたしはあなたがたに伝えたいのです。
自分たち自らが縛っているもの、そのようなもの、それが今あなたがたの後ろ髪を引っ張っているということ。そして次に確実に、次の流れが来て、今その開始宣言が出てるということ。それを本当の意味でレムリアの人たちが覚悟してるかということ、それを聞きたいのです。
エル・ランティ自ら出て来られ、あのような宣言をなされたということ。それが天上界においても、地上においてもどれだけ大きな意味を持つことであったか。あなたがたはわかっておられるだろうか。
いつも霊言を聴くと泣きながら感動に震えても、終わるとまたすぐ、また別のものが、欲しがっていく。ちゃんとひとつひとつの霊言を魂に落とし、腹に落として、自らの人生に役立てていかなくては、我々のメッセージはなかったのも同然になってしまうのですよ。
そして、ただただ取るだけにおいて、この者の体力と生命力を奪っていくだけならば、そんなものはなくていいのです。ひとりひとりが心の中に腹の底に落として、自分の魂を立ち上げて、情熱をかき立てられて、自分のできる最大の仕事をこの世界に向かって広げて、人から中傷を受けることも厭わず、やっていこうというエネルギーに変えられてこそ、この人の霊言は意味を持つのです。そうでなかったら、意味はないということです。
どうかそのダイナミックさ、それをもっと学んでほしいと思う。
わたしがキュービズムをやったときも、これを描けば世間はどういうであろうか、写実主義に戻れば高い評価を受けていたわたしでありましたけれども、キュービズムをやることによって案の定やはり批判がきた。
でも、それでも負けなかった。それをやることが、これを出していくことが、わたしの本来のいちばん、仕事の、最高の目的であるということをわたしは知っていたから、引かなかったのです。そのときにもし、世間的な名誉もお金も、すべてを失おうとも、そんなものは何にも怖くはなかったのです。本当に必要なものは、本当に価値のあるものは、そこにはないということを、わたしはもう既に知っていたからです。
あなたがたはそれを再三魂の中で、正法というものを通して学んでいるはずではないですか。でも本当の意味で腑に落ちていないから、すぐ世間体的に自分を守ろうとする。そこが弱さとなって自分の本来の仕事のダイナミックさを奪っていると、情熱を奪っているんだとわたしは思うのです。
さっきから、坂本竜馬という、日本で出てきて明治維新をやった方と随分話をしています。彼もお酒が好きで、旨いものが好きで、わたしとひじょうに気が合っているんですけれども、彼もあの明治維新というダイナミックな改革というものを成功させた男として、やはりそれだけの器の男であるなあと、一緒にお酒を飲みながら、彼といろいろ話をしていました。
いいですか。坂本竜馬がいい旦那であったから、いつもご主人が優しい、結婚したその奥さんに対して、いつもゴミ出しをしてあげるとか、お皿をいつも洗ってあげるということだけで、彼が自分の人生を終えていたら、今日の日本はなかったし、今日の坂本竜馬はなかったではないですか。
彼自身は自分の人生なんかは人類にくれてやったのです。日本国民にくれてやったのです。どんな評価があろうと、自分がどんな後ろ指を差されようと、そして愛する女性をそのあと置いていくことになろうと、彼はたいへんその妻になった人を愛していましたから、やはり守りたかっただろうし、一緒にいて子供も持って、いい結婚生活をしたかったかもしれない。でも彼は、それ以上に大きな仕事をしなければいけないという自らの使命の重大さを知っていたから、彼はそこを敢えて捨てて、命を散らして仕事をしていったのではないか。
あの情熱、明治維新と同じ世界維新をする者たちは、あの情熱がなければ、あの志士たちの情熱がなければ、ダイナミックさがなければ、時代の先を読んでいく力がなかったのならば、彼らとおんなじことはできないよとわたしは言いたいのです。
それは神の使者として使命を与えられた者の、最も大事なことであると思う。
一小市民として、一優等生な人生として歩むことだけで汲々としている者は、このような時代の立て直しには向かないのです。
その枠を越えて、たとえ後ろ指を差されようと、世間中から鼻つまみ者になろうと、天上界の意思がここにあるとわかったのならば、それを遂行することに自分の人生を投げ出し、捧げ尽くすということ。
その評価もどうでもいいと思うこと。
それこそが神の使者としての最大の名誉であるということ。
それをもってしか、神のメッセンジャーとしての仕事は果たしえないということ。
そこのところをどうかあなたがたは認識していただきたいのです。
大事な大事なターニングポイントですよ。
これから、あなたがたがK会のO氏の二の舞にならないと誰が保障できますか。あのような悪夢が二度三度とまた繰り返されるというのならば、今ここで、今希望の光である者を、すり替えをおこさせてはいけない。
自分たちの中で、できることを精一杯やりながら、そして命懸けで世界に向かって広げていく。
どうかそのための勇気というもの、情熱というもの、それを忘れないでいただきたいと思うのです。