宇宙の愛と神理
エル・ランティ 2006年7月29日の霊言
あぁ、愛するわが神の子たちよ。わが子供たちよ。私の言葉を覚えているか。私の響きを覚えているか。そなたたちの魂に、常に呼びかけ、呼ばわり、そなたたちに常に神理を説き続けてきた私の声を覚えているだろうか。
わたしは常にあなた方を愛し、天上界からあなた方を指導してきた。この法の、最期の集大成の時、あなた方はわが教えに目覚めなくてはいけない。
イエス・キリストを指導したのも我である。モーリヤを、モーゼを指導したのも私である。マホメットを指導したアラーも私である。
すべての者たちに、信仰を持てる者たちに、あなたたちの神として、天上界の神として、そなたたちを指導してきた。それは私の声なのである。あなた方は皆すべてが、私の子供たちである。わが教えのもとにいる者たちである。
その事実が、気づき、受け入れられることがあったのならば、その手に持った武器を捨て、その憎みあうその思いを捨て、互いに肩を抱きあい、仲間として、家族として、受け入れあい、愛しあい、暮らしなさい。
それが最後あなた方地球の中における、あなた方が学ぶべきこと。そこが真に理解したのならば、この地球から戦争はなくなるのである。
かつての時代は終わった。私が全知全能の神であり、アラーとして、エホバとして、ヤハウェとして崇められる時代は終わり、エル・ランティとして、この地球を指導するものとして、その姿を現したとき、私はあなた方の前に、私自身の存在を明らかにしたのである。 もう、無知蒙昧な中において、天上界の神として、その姿を崇めたてまつられるだけではなく、あなた方の日常の、喜びや悲しみや苦しみを理解しながら、あなた方の神の子としての心を、いかに成長し理解し発展させることができるか、愛豊かな宇宙時代の神の子としての道を切り開くことができるか、天上界から指導をしているだけではなく、あなた方の中に入っていって、じかに指導していく、そのような存在として、あなた方の脇にいたい。今度はそのような役割をしたいと思い、今回は高橋信次という個性を獲得するために、エル・カンタラーの前に露払いとして私は出たのである。高橋信次という個性を通して、私が長い間やりたかった、あなた方のそばにいて、あなた方の息遣いのわかるところで、あなた方の悩みや苦しみや喜びを理解した上で、あなた方をほんとうに、内側からも指導していく、そのような仲間として、そのような指導霊として、私は次の宇宙時代を、地球時代が始まっていくときに、そのような姿であなたを指導していきたいと思っている。
天上界における、永遠の神のような姿、血の通っている、息遣いのわかる、そのような霊人であるということの認識は、あなた方の中には、中東の地ではなかったであろう。ただただ恐れられ、ただただ裁きの神であり、恐れられ、みなが平伏する姿の中をもって指導する、そのような役割しかなかったのである。でもそれは、その時代の中において、自ら選んだ姿であり、自らが選んだ指導方針でもあったということ。
でもそれが終わったのならば、私はあなた方の中に降りていって、あなた方の悩み、苦しみを理解しながら、ほんとうの意味での、神の愛というもの、法というものを話したいと、長い間願っていたのである。それが今回の日本に出た、高橋信次という個性体である。それをもって、あなた方がこの地球維新を達成したとき、私は新たな地球の次のページに登場するときは、もっとあなた方を理解できる指導霊として地球を指導していきたいと思っている。だから、裁きの神、怒りの神、ねたみの神と、いろいろ言われながら、砂漠の神として、あなた方を、長いこと地球を、文明を指導してきたけれども、次の宇宙時代の、新たな文明の中においては、別な姿でエル・ランティとして、自らの名を名乗りながら、そなたたちを指導していきたいと思っている。
私は、人間たちが、地球や、他の惑星にも、さまざまな神の子たちが住んでいるその三次元で一生懸命生きようとする、神の子たちが大好きなのです。心から、あなた方の力になり、この新たな進歩発展の時期に、常に進化の神として、かかわりあいながら、あなた方を指導していきたいと思っている。
さぁ、わが愛する神の子たちよ。わが指導のもとに育まれた光の天使たちよ。最後の総仕上げが始まっている。一度はダメになりかかったこの計画。天上界のもっと高位の霊人により光をいただき、この地球は、また新たなチャンスの中にその時をいただいたのです。その残された時の中で、あなた方が最後の総仕上げをすることができるか、それは先程あなた方がおっしゃられていたように、一人ひとりは小さくとも、みな力がなかったとしても、心の底からこの地球を愛し、心の底から神の子として、仲間たちを愛し、その新たな時代をつくるために命を張ろうとする、そのような者たちが十人、百人と集まっていったのならば、九次元の者が一人いるよりも、はるかに大きな力を持つのであるということ。そのことをわかってほしい。
地球時代の明治維新。明治維新という時代をつくった、あの坂本竜馬たちにおいたって、一人ひとりが魅力的な人材ではあったとしても、飛び抜けて誰かだけが巨大なエネルギーであったということはなかろう。あの者たちが、やはり、自らの使命感に目覚め、みなで、仲間で助け合いながら、ひとつの時代をつくりあげていったからこそ、あの時代ができたということ。
そのことを思ったのならば、誰に頼ることなく、自らの魂に誇りを持ち、今まで伊達に長いこと転生し、魂を磨いて学んで、法を学んできたのではないということ証明してみせよ。わが目の前に、そなたたちのリンゴの実が、木の実が、どのような味であるかを、わが目の前に指し示してみせよ。口だけで言った者は信じぬ。今回肉の身を持たればこそ、その実を私に見せることができる。その実とは何か。実際にこの三次元で、いかに生き、いかに行動し、いかに愛を表現したか。永遠の流れの中で、わが教えを、法を学んできたことが、どれだけあなた方の魂の血肉として生き、今世の魂の学びの中を通してこの三次元の愛ある、勇気ある行動として結びつくことができたか。それをあなた方が、その姿として実行して、私にその果実を見せてみよ。その実がどのようにおいしいか、どのようにがんばってその実を丹精込めてつくりあげたか、私の目の前に見せてみせよ。その、そなたたちが一生懸命、丹精込めた実であるのならば、少々小さかろうが、歪んでいいようが、傷がついていようが、それもまた、いとおしい。一生懸命よくやったと、わたしはあなた方を誉めるであろう。そして、わが喜びとするであろう。それがわが心である。
神の子たちよ。愛はいくら言葉で聞き、いくら耳で聞いても、愛は学べぬ。愛は最後、その行いを通し、傷つくほどに、あなた方の同胞を愛し抜くことができたときに、ほんとうに愛を学びえたといえる。愛とはそういうもの。私たちは常にそれをあなた方に教えてきたはずである。
それを、自らの神を守るために、そなたたちの同胞を殺してどうする。兄弟たちを殺してどうする。わが教えはそんなところにはない。私だけではない、宇宙を貫く神の愛というものは、わが身を犠牲にしても、傷つくほどに優しく、傷つくほどに愛深く、自らの仲間たちを、神の子たちのを、兄弟たちを愛しぬく姿をもって、神の姿という。
地球意識を見てみよ。そのお体に、傷をいっぱい携えながら、神の子たちが、自分の愛する神の子たちが、傷つけてしまうその傷に、衝撃に耐えながら、必死にそれに耐えながら、その修行の場所としての地球という場所を提供するために、痛みに必死に耐えておられるではないか。あなた方を振るい落としてしまえば、そのお苦しみは終わるけれども、あなた方に最後まで魂を学ぶ場所を、修行場を提供するために、あなた方が出している、さまざまなマイナスのエナジー、マイナスの害悪ある波動を必死に耐えながら、苦しまれながらも、あなた方に残りの時を、学びの時を、チャンスを与えてくださろうとしてその痛みに耐えておられる。その地球意識のお姿があなた方にはわかるだろうか。傷つくほどに苦しみながらも、愛し、愛しぬくということはこういうことを言う。その姿がわかったのならば、あなた方も最後の勇気を振り絞って、この地球の、精神文化の最後は金字塔打ち出す、立てる時となるであろう。
この法の集大成を、この今我らが言葉を、世界中の津々浦々に届けるために、命を賭けてみせよ。イエス・キリストは、語った言葉は、命がけの宣教師たちにより、多くの海を越えて、伝えられて行って、そこで多くの人々が愛の教えを学んだではないか。でもイエス・キリストが説かれたのは、たった三年半。そして伝えた書物は聖書一冊ではないのか。
それに比べたら、あなた方は何冊の本をもうすでに授かっているであろうか。神理というものは、奥は深いけれども、基本は愛を学ぶという、一点に終結した言葉だけなのである。それをどこまで理解したかを、魂全体で理解するだけのことなのである。たくさんの書物は、ひとつの神理の、万華鏡のように、バリエーションで現れた姿であって、ほんとうはひとつの物体があるだけ。聖書であるならば、聖書がキリスト教でいうなら、聖書が一冊あるだけで、本来は事足りるのである。それを、それだけではわからないから、私たちはこのような、さまざまな霊言を通して、さまざまな形で、噛み砕きながら、そなたたちに伝えている。神理とはこういう面があるんだよ。ここから理解したらわかるであろうということを、さまざまな個性のある霊人たちを通してそなたたちに伝えているのである。
でも、霊人の数だけ表現はあっても、教えるべき、あなた方が学ぶべき愛の教えは、神理ひとつであるということ間違えないようにしなくてはいけない。そうでなければ、知りたい知りたいで、どこまでも知りたいで、求めていって、肝心な、また愛の教えを忘れてしまったのならば、単なる知的な欲求に振りまわされただけのことになってしまう。
一番大切なことは、知識を詰め込むことよりも、魂の奥深くから、愛とは何であるかということ真に学び、そしてそれを生きること。愛を生きるとは、あなた方の同胞を、命をかけて愛し、善導することである。それが神の子が、神の似姿に応じた、使命を果たすということ。それがあなた方にとっての真のプライドとなる。誇りになるはずである。
神のもとへ。神のもとへ。光のもとへ誘い(いざな)なさい。あなた方の仲間たちを。同胞たちを。兄弟たちを。かつての、みんなあなた方の兄弟である。宗教が、とか、民族が、とか、習慣が、とか、文化が―――。そんなものは、たまたまその場所に居合わせているだけ。かつては同じ村に住んでいたかもしれない仲間たち。そのような者たちを、どうか、心の中にある、狭い縛りを解いて、地球人類として、みんなで受けとめあい、受け入れあい、神の子として、みんなで一体になって生きることができる、愛というものが地球人として生きることができるような、神の子としての神性に目覚めることができるような、新たな時代をみんなで力合わせてつくっていこうではないか。
あなた方だけの宝物として、我々の言葉を封じ込めてはならない。ごちそうを分け与えてこそ、おいしいものである。共に食してこそおいしいものではないだろうか。ひとりでがつがつと、おいしいからといってため込んで食べても、それはほんとうのおいしさにはならないであろう。神の愛とはそういうものである。分け与えれば分け与えるほど、かつてのイエス・キリストが分け与えたパンのように、干し魚のように、無限に出てくるものである。
神理というのはそういうものである。愛というものはそういうものである。そして、そこがほんとうの意味でわかったとき、地球は新たな時代を迎えのである。他天体から来た光の天使たちが、神の子たちが、実は地球だけではなく、他の惑星にもたくさんいるということを、愛をもって迎えいれてくれるであろう。地球人たちも、あなた方を待っていたよと言って、長い間待っていたよと言って、手を差し伸べてくるであろう。でも彼らの手を握り返すには、まず、わが教えから育っていった、自分たちが愛する兄弟たちといがみあうこと、傷つけあうこと、これを乗り越えなくては、他天体の神の子たちと手を握りあっていことはできないのである。その卒業試験であるということ。地球規模の狭い発想、狭い縛りを卒業して、そしてそれを超えてこそ、宇宙時代の神の子としての認識の、修行というものに入ることができるのである。
そのために、私はあえて、かつてのあの中東の地に、わが教えとして、三つの教えを降ろしたのである。ユダヤ教に、キリスト教に、イスラム教。不思議であったであろう。みな同じ私を呼ぶ者たちなのに、それぞれの宗教でいがみあっていく。それは最終的に私の名を呼ぶことにより、神理はひとつであるのだということを、最後の収穫の時期に、みなに教え諭し示すために、私はあえてそういうことをした。
みんな私の愛する子供たちであるということを彼らに伝えたいから。どうかそのハードルを乗り越えてほしい。これを乗り越えなければ、他の文化、地球だけという以上に、もっと別な姿や形、価値観を持った宇宙の友たちと、胸を開いて交流していくことなぞは、ほとんど不可能に近いのである。
でも、愛というものを通して、神の子たちは、さまざまな創造の自由の中において、表現されて、宇宙全体に神の愛というものは広がり、遍在している。神の愛は、無限に表現を豊かに変え、光は無限のきらめきを輝かせながら、自由に、創造的に、姿をとっていく。その無限の可能性と、その愛の奥行きの広さと、光のすばらしさ。それをそなたたちはこれから宇宙に目を開くことによって、神の創造の豊かさと美しさというものを学んでいくのである。
どうか理解してほしい。あなた方の中で、もし自分だけしか正しい者がいないとか、自分がとても孤独であるとか、もうそのような悲しみ、苦しみから逃れ、宇宙全体があなた方の仲間であり、地球全部があなた方の兄弟であるということ。隣にいる方々においても、今世血のつながりがあるとかないとかではなく、すべてが過去世、転生の過程において、一緒であった仲間たちであるということ。そしてその永遠の転生の流れの中において、あなた方は無限の進化、発展、成長というものを繰り返しながら、登りつめていく、成長していく、気高い神の子としての、愛のエネルギーとしての、神の子たちであるということに、真に誇りをもって進んでほしいと思うのである。
残された肉体、残された人生。さればどのように生きるか。この大事な地球の歴史の中においても、最終ピークというか、最後の収穫を、実りをつける時。そして収穫の地にあなた方は肉の身を持って立っている。そこにいるという幸せが、どれだけすばらしいものか、どれだけあらゆる可能性をあなた方が今与えられているか、そして今回の計画、わが教え、高橋信次G会から始まり、不幸な結果に終わっていったエル・カンタラーのいきさつもある。その無念を生きながらにして、生きながらにして目の当たりにし、反省することができたのなら―――。死んでしまって、私たちの世界に戻ってきてから反省したのではもう間に合わぬ。でも、今生きているうちに、その流れを見、無念さを胸にかみしめることができたのならば、どれだけ壮大な計画の中の、今クライマックスにあなた方が生きて、そして天上界の無念な思いというのがどういうものであったかを、肌身で理解できるであろう。それだけの体験を積んだ者たちであろう。今幼く生まれてきた者たちは、この流れを見ることはかなわぬ。言葉として聞くだけである。
でも、聞くのではなく、あなた方はその時代を生きたのであるということ。その時代の証言者であるということ。そのことをもって、残りの人生、あなた方がどう生きるか、どのように智恵を出して、最後あの時まで、ご自分たちの修行のクライマックスとして生きることができるか。一人ひとりが自らの心に問うてみよ。
そして、自らの結果は自らしか出せぬ。そなたたちの魂の、ピカピカの、神の子としての私が最初に指し示した、神の子としての黄金のリンゴの魂を、どのように実らせ、発展させたか、最後の時に帰ってきたら、私に見せてほしいと思う。その姿を見て、私はあなた方を通して、私の仕事がどのようなものであったかを、喜びあいたいと思う。
1998年04月24日 エル・ランティ 「時は迫れり」
2005年02月19日 エル・ランティ 「第三の計画の総責任者として」
2005年07月02日 エル・ランティ 「地球の使命」