愛の羅針盤を
イエス・キリスト 2006年4月8日の霊言
地球を照らす太陽がひとつであるように、地球を指導している霊天上界もひとつであり、そして、宇宙の神はひとつなのです。いくつもの神がいて、神同士が喧嘩をしていると思っているのが、地球の者たちの宗教戦争の原因でもあるのです。
根源はひとつであるということを、地球人類に教えなくてはなりません。
「私たちは、みな仲の良い仲間であり、地球人類を指導するために頑張ってきた指導霊たちである。実は私たちはみな、ひとつの理念のもとに指導してきたのである。」ということを、地球人類が悟ったのならば、宗教戦争というのは無くなっていくのです。
そして、それは愛のもとに、愛の倫理のもとに、ひとつにまとめあげられるのです。その、シンプルな、シンプルな愛というものを理解していく中において、自分たちが過去置かれてきた、狭い狭い民族的な、ドグマ的な限定の中における認識というものから、あなた方一人ひとりは、みな神の子であるということを、今回しっかりと教えられている。永遠の魂の中において、転生輪廻をしている、永遠の命を持った神の子であるということを教えられている。
その意味において、あなた方が所属する宗教も、国家も、何もないのだということを、あなた方は知らなくてはいけない。
自分たちの所属するところがここであると思うからこそ、相手との戦いが生まれるのです。
実は違う。世界中の至るところに、そして、あらゆる宗教に転生している魂である。その長い、長い年月、転生してきたあなた方の魂が、今、ここで神に問われているのです。どこかに所属して、身を隠し、その与えられた過去の狭いドグマの中で、与えられた小さな宗教の考え方の中で、自分を正当化し、争うのではなくて、あなた方が、一人ひとりみな神の子であるという、神の子として、あなたの神性をもって神の前に立ちなさい、と。
永遠の命を持つ神の子たちよ。
あなたはほんとうに、神の子として、何をなさねばならないと思うか。
神が愛のエネルギーであると、宇宙を貫く愛のエネルギーであるということを知らされ、そこにおいて、神の子である、愛のエネルギーを引く、あなた方一人ひとりは、それでも、自分がかつていた国の、自分がかつて信仰していた宗教の、民族の仲間たちを攻撃し、殺し合うのか、と。
何をあなた方はするのか、と。
もう、そのような民族的な、国家間的な、イデオロギー的な、そういう枠を全部一度捨てなさい、と。
そこを学ぶことにより、あなた方の魂は育ってきた。でも、今は、その学んできたものの中から、あなた自らが、あなたの神の子としての神性として、神の前に立ちて、その答えを一人ひとりが答えるときがきている。
それでもあなた方は、自分の兄弟たちと殺し合うのかと、そうやって、この愛の地球を滅ぼしていくのかと、神は問うている。
そこにおいては、いかなる所属団体の言い訳も、受け売りの知識も通用しない。魂として学んできたその長い長い流れの中で、数々の転生輪廻の中で、あなたは何を学んだのかということを―――。
それを通して、今はもう、そういう国家間のこと、民族的なこと、宗教的な枷からはずれて、地球人類として、この愛の星のもとで、ひとつの家族として手を取り合って、この地球を滅ぼすのではなくて、次の愛の時代を築くために手を取り合って、愛の地球ルネッサンスをしながら、次の時代の到来を迎えようではないか、と。
そのように、私たちはあなた方に語りかけている。そのための試練である。
この答えは誰も代わることはできない。なぜなら、その人その人の魂によって、来たルーツはみな違うのです。でも、神から常に投げかけられる質問は同じなのです。それに対する答えを、あなた方自体が、口先だけではなく、頭だけではなく、想いにおいて、この地球の、生きる、生き抜く人生の行いにおいて、あなた方がどのように納得した結果をもって、自分の人生の答えを生き切ることができるか。
それをもって、あなた方の魂が合格とされるか、不合格とされるかが決まるのです。その時期が今回来ているということです。
愛の教えというものは、信仰というものは、ひとつの決まった答えだけがあるのではないのです。それは、自分自らの人生の中で、どのような答えを導き出していくか。それが真に大事なことであって、それは神の子としての神性の輝きをますます光り輝かせ、あなた方の魂のグレードを上げていくものになるのです。それがあってこその、無限の進化なのです。試験のための試験ではなくて、ひとつの区切りとしての、人類に課せられたテストなのです。聖書の中にある「羊と山羊を分けるとき」というのは、そういう意味なのです。
けっして神は、難しい難解なことを望んでいるのではない。ただ、「神の子であるのだよ」と言われたら、神の子として、愛に生きることができるか、と。
愛を心の中心に据えて、分かち合って生きていくことができるか、と。
互いに愛し合い、赦し合い、生かし合って生きていくことができるか、と。
ただその一点だけをあなた方に教えるために、数々の宗教が興り、数々の霊指導が起きて、あなた方は転生輪廻をしてきたのです。そしてその原点は常に、神の子としてどう生きるかという魂の学びにあったのです。
人間というものは、仮想敵国をつくって戦うのが好きなのです。自分の中に都合が悪いことがあると、そのような仮想の、悪い、これは間違いなく悪の塊であると限定したものをつくって、そこと戦うということをもって、自らの非というものを打ち消すことができるからなのです。
でも、100%悪いなんてものは、この世にはないということ。そして、それが、人類が求めてきたからこそ存続してきたということなのです。という意味においては、未熟な人類がまだまだ学ぶ意味において、必要としていた団体であったということなのです。
そのことを思うと、あなた方はどこかひとつの一国だけを、ひとつの組織だけを、さも、ルシファー、サタンが指導しているから魔であるというふうに決めつけをしてはなりません。そこを通して、闇の中で光を学ぶ方もいるのです。そこで苦しんだからこそ、魂が光というものの意味を、存在意義を知るような指導の仕方を受けている方もいるのです。
ですから、その組織、この地上に出ている団体、それだけを悪の権化と決めつけてはいけません。それよりも、そのようなものに惹かれ、もし、そのような暗い波動があるのならば、そこに惹かれていく自分自身の心の中を点検することです。人は興味がなければ近くには寄らないのです。興味があるからこそ、マイナスの波動があるとわかっていても、歓楽街のようなところに惹かれて行く場合もあるではありませんか。
いちばん大切なことは、表面にあるものが絶対、悪であるとか、絶対、善であるというふうに思うのではなく、心の中に、天国も地獄もあるということ。神の子としての自分もあれば、地下に通ずる醜い顔を持った自分もいるのかもしれないと、常に反省をすることです。
そして、ほんとうに神の子として、先ほどから言う、愛のエネルギーを引いた神の子の誇りを持って生きるとしたのなら、あなたはどのように生きますかということ。その原点に常に戻ることです。そうすれば、地上にある団体とか、イデオロギーとか、宗教だけのせいにして、自分は被害者であるかのようなことは言わなくなるのです。
いちばん大事なことは、自分の心の中にある、神の子の、そういう物差しで、しっかりと神の子として愛を輝かせて生きることが大事なのです。
だから、私は申しました。 「汝、人を裁くことなかれ。」と。
そうすれば、人を裁くことにはならないのです。 まず、神の子として、愛を、愛を光り輝かせ、他者を裁くことなく、心優しく生きる者に、波長同通の法則により、マイナスの者は近寄って来たくても近寄れないということです。近寄れない者に、関わり煩い合うこともないわけです。そこに、関わり煩い合って苦しむということは、自分が何かそこに惹かれている者であるということ。そこに同通するものがあるということです。それを学ぶ、まだまだ未熟な段階であるからこそ、神はそのような様々な団体を、様々な組織を、そのようなイデオロギーを、淘汰せずに存続を許されておられるのです。それをもって、人類がまだ学ぶ材料であるということ、学習材料であるということなのです。
でも、もう少したてば、そういう学びの段階ではなくなります。そういう材料はなくなってくる時がくるのです。
戦争という痛ましい残酷なものを通して、なぜ神はあのようなものを許しておかれるか、という祈りも聞かれる。でも、戦争で、永遠の命があるからこそ、戦争のむごたらしさを身をもって感じた者、傷ついた者であればこそ、戦争は起こしてはいけないと、人は殺し合ってはいけないと、何も生まないのであるということを、魂に刻んだのではないでしょうか。そこまでしなくては、人類は学べなかったという、そういう段階であったということです。それを、その戦争を通して学ぶその時期を終えて、数々の二元対立の中での、悪と善の相克、そういうものを通して、二元対立の中で、人類は学んできました。
その二元対立の時を越えて、ひとつの、光一元という神のお心の中に飛び込んでいく、神の国到来という、地上の神の国到来という、そういう時代をこれから迎えていく中において、人々が、みな神の子の原点に戻らなくてはなりません。
その時代が到来することを、私たちは、地上仏国土、キリスト教で言うのなら、「神の国は来たり」。そういう言葉で予言してきたのです。そのときがやっと来ようとしているということなのです。
その扉を、神の国の、地上の神の国の扉をくぐって行ける者たちは、神の子としての自覚に真に目覚めた愛の人とならなくては、その扉はくぐって行けないということなのです。
わかりますか。
どんなものも、言い訳にしてはならないのです。どんな宗教であれ、どんな教えであれ、今の時代、完全なものはないのです。でも、その教えを通して、今の現在の、あなたが養われてきたのではないでしょうか。
であるのならば、いい意味においても、悪い意味においても、それを判断材料として、この最終的な神の問いかけ、その問題を自力で解きなさい。それが、あなた方地球人類に与えられた、神の側からの、唯一の、ひとつの試験であり、次の宇宙時代を迎えるための最低限の入学試験になっていくのです。それを越えてこそ、小学校レベルが終わり、中学校レベルの地上仏国土としての愛の修行の場所がスタートするということなのです。その答えは、自分で出すしかないのです。どれだけ口で言っても、頭で問題を解いたように言っても、その行いの中にすべてが出てしまう。それを神が見ておられます。そして、あなた方自身の魂が、あなた方自身をいちばんよく見ているのです。
そして、一人ひとりが、これから先どのようなところに行くかを、あなた方の魂自体が決めていくのです。
これから中学校レベルになる地球という修行場にいて、次の宇宙時代を築くために、貢献して頑張っていくメンバーになるのか。
それとも落第して、別の惑星の準備されている小学校レベルのところに、また転生していって、もう一度学びなおしていくのか。
それとも、もうその段階を越えたから指導段階は終えて、別の星へ、もっと別の進化した惑星へ帰って行くのか、自分の来た星に帰って行く方もおられるのです。
その行き先を決めるのは、自分自身の魂であるということです。宇宙においても、波長同通というのがあります。広義な意味において、自分と同じ霊域でなければ、暮らしていくことはできないのです。そうすると、中学校レベルになった地球自体は、おのずとバイブレーションが精妙になるのです。波動が精妙になってくるということです。下に行けば行くほど、荒いのです。上に行けば行くほど精妙になり、波動が細やかになるのです。
そのことをあなた方が学ぶのならば、中学校になった地球に、あなた方が入っていけるのか。
そしてまた、ほとんどの地球人の方々が落第して、結果、地球自体を滅ぼしてしまうような、もし核戦争のようなものを行っていくのならば、地球自体の使命として、もう一度振り出しに戻るという選択肢もまたあるのです。
あなた方自身の魂が、今まで学んできた数々の頭でっかちな思想、その時代その時代では、「汝、他の神の名を呼ぶなかれ。」とか、そういうのは、モーゼの立法における規定とか、それはその時代に必要であったということです。バール信仰がひじょうに盛んであったとき、偶像崇拝がひじょうに激しく行われたときに、「偶像崇拝をすることなかれ」と。そして、そこらへんではやっている民間宗教である、偶像崇拝を、他の神を拝むことなかれということを、我々は、モーゼにしても言ったことがあるのです。
でも、そのまま受け売りして、この現代の日本に、現代の地球に当てはめたら、それは私たちが言った本来の趣旨とは違うということです。ですから、私がかつて言ったこと、それも一部分の者たちが口で伝え、書物に書き、そして、のちにまた編纂されて、聖書という形で伝えられているのです。ですから、そのままの私の想いが伝わっているわけでもないということ。それは、私のだけではない、仏教経典においても、他の様々な教典においても、みな、そうであると思います。
ですから、そのようなものに執着するのではなくて、ほんとうにそのようなひとつの、狭い狭いところだけで生きている魂ではない。様々な宗教、様々な国家間を転生し尽くしたあなた方―――。
今回の文明だけではない、過去様々な文明を転生し続けてきたあなた方の魂として、そういう枷からはずれて、今回、神から与えられた課題に答えを出してごらんなさい、と。
それのために、自由意志があるのですよ、と。そのために地上は修行場所としてあるのですよ、ということを、私は皆様方にも、そして、このネットを通して、向こうで聴いておられるすべての方々にお伝えしたいです。書物を読んでおられる方々にも、お伝えしたいのです。
そうすれば、私は何人であるからとか、どういう宗教を持っているからとか、どういう国に育ったからとかいうことは、地球という境界線のない、ひとつの青い美しい星の中に生まれた地球人として、地球に生まれた神の子として、あなたはどのように考え振る舞いますか、と。
感謝して、共に助け合って、地球人類みなが家族であるという愛の理念に支えて、支えられて、宇宙を貫く神の愛のエネルギーに感謝をして、新たな愛の星としての愛の文明を築いていこうと、決意を新たにしていくことができるか。
そのような課題に立ったとき、様々な問題に対して、あなた方はどのように答えを出しますか。
そうすれば、大方の問題は解けるはずなのです。様々な捉われがあるから、あなた方は、あれは正しい、これは正しいと、他者を裁くのです。自分自身の中に、そのような捉われがなかったらば、他の方に対しての、こだわりに対しても寛容になり、裁くことはなくなるのです。
愛に裁きはありません。
愛は、赦し合い、生かし合い、分かち合うことを「愛」と言うのです。
それを魂の中において、愛のエネルギーの自覚というものを、真に神の子として知ったのならば、あなた方がどのような未来を築いて、人類が生きて行かなくてはいけないか、それはあなた方の置かれた今の立場を通して、あなた方自身で答えを導き出せることなのです。それは政治機構においても、経済機構においても、教育システムにおいても、科学の発展していく方向においても、芸術の方向性においても、今のこの一点をもってすれば、あなた方が、また来るべき時代、愛の時代が到来したときに、どのようにシステムを変えていかなくてはいけないか。その答えを、あなた方自身で、導き出していけるはずなのです。
神は常に、あなた方人類を、こうしろ、ああしろという、指示行動に満ちた、命令口調に満ちた想いで操り人形のようにすることは望みません。それは、あなた方の神性に対する、たいへんな侮辱であると思うからです。
地上に生きる、神の子たちの誇りにかけて、自由意志にかけて、あなた方はどうか、地上の神の子としての誇りを持って、自分たちの愛の判断に任せながら、素晴らしい次の時代を築いていただきたいのです。
そして今、この天変地異も含めて、たいへんな時代を、愛の羅針盤を頼りに、どちらの方向に行くべきなのか、それをあなた方自身のお力で導き出していただきたいのです。そこができてこそ、次の時代に行けるということ。それに関する答えは、あなた方一人ひとりが出していくのだということを、何度でも私は申し上げておきたいと思います。
2002年09月30日 イエス・キリスト 「ノストラダムスは嘘をついたわけではない」
2005年01月08日 イエス・キリスト 「奇跡の時代を生きているのです」
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