愛を学ぶ永遠の旅びと
大天使ラファエル 2006年6月17日の霊言
わたくしのことは聖書の中に、そして、名前の中においてのみ、あなた方の世界では知られているかも知れませぬが、私自身が最近、生まれ変わったということがないがゆえに、メッセージというものが地上に広く伝わることはなかったかも知れません。
皆さま方の中には、聖書の中で、また、神話の中で、わたくしの役割というものを伝え聞いておられる方もおられるでしょう。わたくしは、あなた方が認識している中において、アートというもの、芸術というものを通して司る、メッセンジャーとしてのエンジェルであるというふうに、あなた方は捉えておられるかも知れません。
アートという中においても、さまざまな領域があります。 純粋にアートというものを追求している方々も、プロフェッショナルな専門家の中においておられるのですけれども、わたくしにおきましては、アートというものは神のお心というものが、ひとつの宗教的な時代、歴史的な時代に打ち出されるときに、その歴史の中において、神のメッセージというものを伝え広めるために、ひとつの法を流布させるための手段として、わたくしは芸術というものを預かるという、そのような役割にあるのです。
ですから、宗教画であるとか、宗教において、また、賛美歌というものを通して、神のお心を伝えていく。そして、宗教的な彫像というのですか、マリア像であったり、エンジェルの像であったり、そういうものはステンド・グラスであったり、カテドラルであったり、そういう大聖堂のようなものの空間の中において、神の臨在というものを感じていく。そして、そういうものを通して、多くのひとびとが感性の部分で神と出会っていく。その部分においての領域というものを、わたくしは担当している者でもあります。
アートの中には、純粋に宇宙の神の子としての部分として、多くの人々が所属している芸術家集団というのがございまして、その中において、神の子として自由に、奔放に表現していくという、そういうところもあるのです。
ただ、七大天使クラスと呼ばれている、わたしたちの領域というものは、エル・ランティを含め、インマヌエル、ジーザス・クライスト、イエス・キリストと呼ばれている方のもとにお仕えしておりまして、その中において、やっぱり法的なものの流布というものを中心として、宗教芸術というものをわたくしは担当していたのでございます。
さきほど、ダンテという言葉が出ておりましたけれども、ダンテとして出たときに、地獄から天上界におけることについての、『神曲』というものを出していく中において、キリスト教の中において、かつてはインマヌエルは説かれたのですけれども、地獄の諸相を、そして、転生輪廻についての語るべきことを、生きてあの世に、死後の世界に行ったときに、どのように原因結果の理論の中において、人々はあの世に行くのかという諸相というものを伝える、それはキリスト教の中に欠落してしまった部分を補うために、わたくしは出たということがあります。その中において、文学を通して、芸術を通してメッセージを伝えたのです。
ですから、芸術と言いましても、最終的にはマヌ様が、そして、ゼウスという、あなた方もご存じの方が、芸術全般を治められております。指導しておられます。その中において、わたくしの役割は法が流布されるときに、神の宗教的な教えが世に広まるときに、その補助として宗教というものを、アートというものを通して、神の教えを広めるために尽力するということが、わたくしの役割でもあり、個性でもあるということ。そのことを、今、はっきりと申し上げておきます。
芸術において、わたくしが好きなのは、感性において神の法を説くことです。理屈ばかりをこねて、理詰めで言ったとしても、人々の心に神の心は、神の愛の光は届かないのです。仏陀や、救世主、インマヌエル、ジーザス・クライストが地上に降りられたとき、神の法を伝えられます。神の光を伝えられます。そうすると、それを教えとして編纂されるお坊さんたちや、哲学者のような方々が出られて、それを法体系化し、後世へ残す文書の編纂にあたるのです。そして、その後に出て来るのが、その教えを多くの方々に感性でメッセージとして伝えるために、出てくるのが芸術家の集団なのです。
わたくしが出る予定がないのかという質問が、先日あったように思います。わたくしのような者は、常に、救世の法が説かれたときに、その救世主の法を伝え、広めるときにのみ、肉体を持ちます。ですから、出るとしたらこれから先なのです。救世主が説かれた法を、途中で潰(つい)えてしまった法ではあるけれども、それをあなた方が無事に補い、それが地上にひとつのBuddhism(ブッディズム)のpriest(プリースト)―――、仏教のお坊さんたちにより、法体系、法の編纂をされ、ひとつの教えとして、この地上に広まった後に、わたしたちはひとつの芸術家集団を率いて地上に降ります。
音楽において、絵画において、文学作品において、日本にもあるでしょう。大正時代、大正から明治にかけて、ひとつの優秀な芸術家集団が文学においても出られたと思うのです。彼らは群れて出て来ることによって、ひとつの時代の雰囲気を醸し出していく。一人で出たらば、黙殺されてしまうかも知れないけれども、みんなでチームを組んで出て来ることによって、その時代の雰囲気というものをつくることによって、時代精神というのを打ち出していく、そのようなことがあるのです。
今、まだ、わたくしの時ではない。あなた方の時であるということです。ですから、メシアが説かれるべき法を、今、編纂されておられるとき。
でも、それを多くの神の子たちに、メッセージとして、感性として伝えていくときが来るために、わたくしは、もう準備をしております。わたくしの仲間たちを含めて、これからどのように地球規模で広げていこうかという、それを日夜、打ち合わせをしているのが現状でもあるのです。
今、出ている方々は、現代アートと呼ばれている中において、世紀末的な価値観の混乱と混沌さというものを、感性の中において表現する方々が多いかも知れません。
でも、あなた方に言っておきたいのです。神のメッセージを伝えることは、もっとも尊いことではあるけれども、芸術における本質的な、自由なものにおいて、その限定はないということです。何が正しいとか、何が悪いということではない。一時(いっとき)、その時代の中において、人類が苦しめられ、追いつめられ―――。
よいですか。一時、閉塞感の中において混乱したものを表現したとしても、それはその時代の中においては、ひとつの真実であるということです。混乱したアートを出すからといって、それが悪いとか、下の者であるとか、魔であるという価値決めは、それはひじょうに、わたしたちから見ると愚かなことであると思うのです。常に、お坊さんたちが言うような、神の側にいるような者は、確かに次元は高いのですけれども、でも、人の心の中において、神の光の子として生きる姿もあれば、状況において、時代の中において、追いつめられ闇の部分を色濃く持ってしまう、そうやって悩み苦しみ、追いつめられた部分を持つのも、また神の子の姿、ありのままであるということなのです。
そこにおいて、裁きはいけません。裁くのではなく、そういうプロセスの中において、私たちは愛を学ぶために永遠の時の中を生き続け、その中で精一杯、その時その時を学び、その時の中において、時代において表現をしている、そういう旅人であるということ。そのありのままの自分を、プロセスとして受け入れていくということ。そのことを、もっと受け入れてほしいのです。
白黒付け、常に、正しいか間違っているか、二元対立の中において人を裁き続ける、それが現代の世界なのです。自分の相容(あいい)れない価値観を受け入れられない。相容れない、自分だけが正しいのであり、自分だけが信じているメシアが絶対であると思い、神は絶対、自分たちが幼い頃から学んできた価値観だけの神が絶対的なものであり、ほかの方々の神の価値観、生活様式を受け入れない。受け入れられないものは間違っているものであり、自分たちが馴染んだものは常に正しく、justice(ジャスティス)―――正義であると。そのような正義と邪悪なものというふうな、間違ったものであるというふうなせめぎ合いの中において、この地上は二元対立の中において、互いに攻撃し合い、苦しめ合い、同じ神の子たちが、同じ宇宙船地球号の中において、ともに攻撃し合い、自爆しようとしている。それが今の時代ではないのでしょうか。
二元対立、互いに裁き合う心をやめましょう。ただただ、学んでいない旅人の、途中としての未熟さがあるだけではないですか。でも、神の子として愛を学ぶ道に、ここが終わりということはないのです。
永遠の過程がある、道があるということを考えたのならば、今の時代の中において、自分と違う状況の中で、過去から生きてきた方々に敬意を表しましょう。
そして、互いに違いがあることを認め合いながら、互いに学び合うことを学び、そして、受け入れ合うことによって、今、これから第三の計画により、地上にもたらされた、ひじょうにシンプルではあるけれども、ひじょうに本質的な宇宙の叡智を学びましょう。難解なことに神理があるのではないのです。
最後に、数々の、今ある宗教は淘汰されていきます。小さい頃からモスクに向かい、常に絨毯を敷き、挨拶をしたり、日曜日に教会に行ったり、さっき言っていた赤ワインとパンをやって、聖体拝領を受ける姿が、それが天上界の神の子の道であり、神に最も喜ばれる姿と誰が言ったのか。そんなことはないし、Buddhismの中の、仏教の僧侶の方々が決めてしまった、仏陀サンガーと呼ばれている中における、戒律という、ルールというものを守ることが、ひとつの魂の階段を上がることだと、そのように自分たちを縛りつけてしまったのです。それは、ひとつの段階論として、無秩序さの中から学びをする学習の方法論として、過去、与えられたものなのです。それは、その時代の中においては尊かった。それはわたくしは認めます。それによって、世界各地の宗教というものは、ここまで導かれてきたのです。
でもね、もう、その枠を捨てるのです。その殻から抜けるのです。あなた方は地球の、宇宙の、大宇宙の神の子であるという意味においては、他天体においても、ほかの宇宙においても一体であり、すべて、多くのひとびとの意識の中においては、みんな神の子であり、互いに生かし合い、愛し合う存在であるということ。そこには何教もないということ。そして、地球人でも、火星人でも、金星人でも、アンドロメダ星人であっても、何であっても、みな同じ神の子であるということ。
最後、統合されるということは、二元対立を越えて統合されていくという道は、ひじょうにシンプルな道へ向かうということなのです。宗教というものもなくなり、芸術という言葉すらなくなり、あなた方、神の子たちが本来の自分自身を取り戻し、そして、自分自身がどれだけクリエイティブな、創造的な存在であるかということに気づいていく。
あなた方は罪の子ではない。神の子であるということ。愛の子であり、光の子であるということを学んだでしょう。そしたら、それは何教であろうと、どの国民に所属していようと、どのような形態を持っていようと、あなた方の心が自分に正直に、愛の思いをたたえ続けていく限りは、あなた方はすばらしい神の子として、すべての人々と一体となり、結びつけ合い、協力し合い、愛し合うことができるということなのです。それが統合への道なのです。それは地球人類をひとつにまとめあげ、そして、他天体の者たちとも意識の交流を結びつけていく。それが宇宙時代への、大事な、大事なレッスンになっていくということなのです。自分たちだけが、因習や、ひとつの歴史的な習慣の中において、こうあるべしと決めつけたもので自己限定をし、自分を縛り続けて、常に、自分と相手を裁き続ける限り、あなた方の心の中に、他(た)をほんとうの意味でありのままに受け入れ、そして、地球規模で、宇宙規模で、unity(ユニティ)―――統一、合一ということを学んでいく。
それを学ぶために、今回の計画はあるのですよ。それを知らしめるために、かつての救世主たちが総出で現れて、かつて、彼らが打ち出された宗教ではあるけれども、もういらないのだよと。そんなものは、もう捨てなさいと。それで学んだのならば、上り終えた階段は、もう、いらないでしょうと。あなた方の背中に羽が生えている、神の子であるということがわかったのならば、もう、そのようなローカルなreligion(レリジョン)(宗教)は捨てて、もう、あなた方自身の中で飛び立って行きなさい。自由に大空に。あなた方が、本来つくられた、ありのままの姿として、あなた方の才能を煌(きら)めかせながら、大宇宙へ飛び立って行きなさいと。やっと、その段階が来たよと。地球はその段階に来たんだ、アクエリアン・エイジと言うんだよと。それを、今、救世主の方々が一生懸命、声を大にしてメッセージを伝えておられるのです。
わたしはキリスト教の七大天使の一人と、あなた方は認識しておられるかも知れない。でも、わたくしの中においては、キリスト教の、なんていうことはないのです。そして、ベー・エルダから来たでしょうと言われていましたけれども、ベー・エルダだって、どうでもよいのです。わたくしは地球のために、地球の進化のために、地球の人々と共に、命を添わすために、今まで生きて参りました。地球人であろうと―――。
よいですか。キリスト教徒であろうと、Buddhism、仏教の、イスラムの者であろうと、すべてみんな、宇宙における神の子であり、神の創造物として、愛されたすばらしい存在であるということ。その意味において、神の子であるということにおいては、一体であるということ。そのことをあなた方が、もっとわかったのならば、そのようなカテゴリー、そのような範疇における自己限定というものを脱ぎ捨てるべきなのです。そうすれば、今の大方のトラブルはなくなるのですよ。そのような思いで、自分だけは正しいと思うから、相手を攻撃するのです。自分の中に思っている価値観だけがすべてだと思うから、相手を裁いて、自分が不幸な思いになるのです。
頑張って、一緒に天上界と地上界のあなた方と、手を取り合って頑張りましょう。どういう結果になるかはわからないけれども、結果のみを求めるのではなく、何もやれなかったということと、何もしなかったということは違いますよ。何もしなかったら恥ずかしくて帰れないですよ。一生懸命やったけどだめだった、と言っても誰も責めません。自分自身が自分を裁かないことでしょう。人生はすべて、そうだと思うのです。結果において、それは神様にお任せしましょう。自分の、個人の力ではどうにもならないことがある。そのことまで責任を負いすぎて、自分を責めて苦しめることはないのです。でも、その時において、精一杯やったのだと、何もやらなかったのではないよと、一生懸命、頑張ったけど、でも、ここまでしかできなかったと言ったときに、天上界の者たちは大きな拍手をもって、あなた方を迎えることでしょう。結果ではないのです。常において、あなた方の志であり、その時代の中において、自分たちとして何ができるかということを、真剣に自分に問うて行動したかということのみが、ひとつの、その人の魂の評価として戻るということです。
ですから、結果として動くのには、さまざまな要因があるのです。地球規模的なものにおいて、原因結果において、さまざまな要因があります。でも、第三の計画を発動されたミカエルの気持ちを思うと、やれるだけ精一杯のことを、最後、わたしたちはやりましょう。メシアが失敗し、メシアが伝えられなかったことを、凡人であるわたしたちが、あなた方が、精一杯やったときに、どのようなことができたかということを、そのことをお互いに後世の者たちが学び合う、ひとつの材料とすることもできる。そして、逆にそういう者たちでなくても、みんなが力を合わせて愛のもとに、精一杯、死ぬ気で頑張ったときに、メシア以上のことができたではないかと。そのように思うことは、後の人類にとっても、神の子たちにとっても、大いなる希望の光になっていくのです。
かつて、メシアが失敗することはなかったのですよ。 アトランティスにおいても、レムリアにおいても、ムーにおいても、メシア・クラスの方が失敗することはなかったのです。でも、メシア・クラスの方が失敗したときにおいて、いったい何がどうできたかということは、今回、初めて文明において、文明の流れの中において、初めての実験になっているのです。無理がかかっているのはわかっているのです。無理がかかっているのもわかっているけれども、こういうことを通して、また、わたしたちは多くのことを学ぶし、けっしてメシア・クラスになることが、大いなる仕事をするということではないということを、また学んでいるのかも知れません。ひとりの突出した人が時代の精神をつくること、そびえ立つということはあります。でも、ひとつの突出した人ではなかったとしても、それぞれに志熱く思う者たちが、心からの手をつなぎ合うことにより、神の磁場をつくり、神の愛というものをこの地上に興す、降ろすことによって、メシア以上の、突出した時代精神以上の、時代精神のムードをこの地上に出していくことができるのならば、それはすばらしい希望の原理になるのではないでしょうか。わたしはそう思う。
一人ひとりの悟りを、一人ひとりの魂の悟りを、ということに汲々(きゅうきゅう)とすることが、今までのひとつの宗教の流れの中にあったかも知れないけれども、個人の魂の偉大さというものは、霊格でもない、ランクづけでもない、悟りの大きさでもない、ただただ、無心に多くの人々のために命を投げ出すということ。それが大事なことであるということ。わたしたちは、ひとつの今回の文明実験の中で学んでいるのです。
やってごらんなさい。残された今世の人生、やれるとこまで、やってごらんなさい。
形に拘らず、神の子として、自分の納得いく人生をやってごらんなさい。
そして、帰っていらっしゃい。
結果はいい。どのような結果になろうとも。その、あなた方が精一杯、頑張られたのならば、その志を継ぐ者たちが、また次に出て来ます。また、今の幼き子どもたちの中から出て来る。
でも、あなた方が全開で命を煌めかせ、時代の炎として、光として輝かなかったのならば、次の世代はあなた方を見て、また、自らの命を燃やそうと思わないことでしょう。あなた方が、今世、無駄に命を費やすのならば、次の世代の者たちは、あなたを見習って、あなた方のようになりたいと思わないことでしょう。その意味において、明治維新の志士と呼ばれていた方々を出すプロジェクトは、ひじょうに大事なことであったと思う。彼らから学んだ、学ぶべきことを、あなた方はやるのです。彼らの命の煌めきを、ひとつの時代精神をつくってこられたということを、わたしは心から敬意を表しているのです。あんなふうに生きられるのです。彼らに比べて、あなた方の何が劣っているというのですか。ただ、覚悟だけなのです。そして、仏陀がダメになった、何がダメになったと言うけれども、霊格も関係ない。悟りも関係ない。自分なんて、と思うからこそ、自分の命が煌めかないだけなのですよ。
自分自身に驕(おご)り高ぶるのではなく、ひとつの、この時代の中で、精一杯、生きてみようと、自分の生きる場所を見つけてみようと思って、命を輝かせてごらんなさい。そういう人たちが、どんどん火が灯っていったのならば、インマヌエル・イエス・キリストが言った、光を高く掲げよと、テーブルの上に高く掲げよと、あなた方の神の子としての命を高く掲げよと、その神の思いというのが、この地上に光のリレーのように、キャンドル・サービスのように伝わっていくのです。
一人ひとりの心の中にある、神の子としての愛の光に灯すのです。外から見てもわかるように灯してごらんなさい。そしたら、その愛の光のキャンドル・サービスは地球を包んでいくのです。それはわたくしが初めて言ったことではないはずです。ほかにも言われているはずなのです。でも、言うことはみな同じなのです。それしかない。愛の光で、神の光で、この地球を灯し続ければ、愛のリレーというものは、光のリレーというものは、どんどん伝わって点火していくものなのです。
神の子というのは、根本においては、ひとつにつながっているのです。
よいですか。みな、意識においては、一人ひとりはすばらしい存在であっても、根底においては、神の子の大いなる神の意識の中においては、一体なのです。みな、他人が、とか言うけれど、他者というのは別の者ではない。みな、一体なのです。
ですから、その、愛の光のリレーというもの、認識というものが、覚悟を決めて光を灯していく人たちが多くなっていくのならば、それは深層心理において、まだ会ったことのない、地球の裏側の方々の意識においても伝わっていくということ。
それが地球を変えていくのです。難しい理論が変えていくのではないのです。愛の思いが、愛のために生きようとする、その決意が、いいですか。あなた方、地球を救っていくのです。
その、神のメッセンジャーとして、あなた方は降りている。それ以外の存在ではないということ。
そして、わたしはその思いの中において、その法を広げるために、芸術という分野において責任を持っているメッセンジャーであるということ。単に、好奇心や、自分の自由奔放な表現をしたいというだけにおいて、芸術的な部分を管轄しているということはなく、あくまでも神の法のために生きんとしている、そういう者でもあります。
そして、その中において、幼き頃より歌に、音楽に、絵画において、子どもたちを育み、青少年において、青少年たちはひじょうにコンサートとか行くでしょう。今の日本においてもね。そういう、ひじょうに多感な、センシティブな、繊細なときに、そういうものを使って光の方向に、神の方向に導こうと、そのような方向において、わたしは指導してきたから、ひじょうにわたくし自身の姿も若者のような姿になっているし、子どもたちに対しても、ひじょうに深い愛を持ち、指導者として、教育者としてあたろうという気持ちがある者でありますから、そのような個性を、まあ、そのような姿をもって、こう、伝えられたものがあるかも知れません。
でも、純粋なる芸術家というよりは、ひとつの、やはり、わたしも宗教的な意味においての、法のメッセンジャーであるという立場における芸術的な指導というものをしております。それはサリエルにおいても、ウリエルにおいても、パヌエルにおいても同じなのです。法とか、政治とか、医療とか、いろいろあったとしても、それはあくまでも、神の世界をこの地上に体現するための、彼らのその手段であるという、それがいわゆる、エル・ランティとか、インマヌエル・イエス・キリストのもとに、わたしたちが役目をいただいております七大天使という者たちの役割であるということです。そのことを、ひとつ申し上げたいかと思います。
2005年05月07日 大天使ガブリエル 「神理の伝達伝道が光の天使の使命」
2005年11月12日 大天使サリエル 「新たな霊文明時代における医療」