親子間の臓器移植 は愛を与え合う美しい姿
私たちの世界から、臓器移植というものを見ているときに、このたびさまざまなことが、この永遠の命というものを神の子たちが有しているということを踏まえると、肉体を、修行する地上の舟であるというふうに認識されていると思います。
その意味において、もし幼き者であっても、たとえば多臓器不全のような症状で生まれてくる者には、やはり、その者が悪いということではなくて、その者にはその者の修行、そして過去世よりのカルマの打ち消しになるような状況というものを、自らが設定して出てきているということがあるのです。
ですから、だったら、他の臓器を持ってこなくて死んでいくほうがいいのかというと、たとえば、そのように今、伺ったような、肉親がその子の命をいとおしんで、自らの体の臓器を提供してでも、その子を生かしめたいという思いそのものは、自分の身を捨てた愛の思い、愛の行いであります。
そして、その臓器において、ご両親やなんかの肉体においても、その子どもを生かしめたいという思い、愛の思いに満ちて、その子どもの体に移植されていくわけです。
それは、やはり愛の循環となって、その子どもの肉体においても受け入れられることはひじょうに多いのです。
愛が命を救っていく。その流れにおいて、一面的だけの部分で、臓器移植が全部悪いというふうには私は思わない。そのように理解しております。
愛において幼き者を救っていく。逆にそのような状況、シチュエーションというものを、その親子が設定してきているということもあるのです。
いちばん大事なことは、みずからの命を捨ててでも、愛のために、愛を育むために、お互い生かし合って、今回、生きているのだということを学ぶことが、いちばん大事なことであるということなのです。
そのことによって、その子の命が長らえたということは、親に対する最大の感謝にもなるでしょうし、そして、その親にとっても、その子に自分の身を裂いてでも、その子の命を救うことができたということは、別な意味で、その子の親になったということの段階においてもそうですけれども、愛を恩返ししたということにもなるのです。
それは、輪廻転生の仕組みは、ひじょうによくできておりまして、その子ども自体も、その親になる方から愛を受けるということが、逆にお互いに、愛を返し合うという形になるために、お互い親子という形で生まれている場合もあるのです。
そういう意味において、愛を与え合うという、その美しい姿は、臓器を移植するということ以前の問題として、それは美しい姿です。
まんだらけ出版「地球最高神九次元霊2」(レムリア・ルネッサンス著)
P108~110 イエス・キリストからのメッセージ抜粋