芸術に光を込めて
マヌ 2002年11月28日の霊言
我々の文明は、技術と研鑽と、そして悟りがそこにあったからこそ、それだけの水準あるものが世に残せた。そしてそれにより、社会で評価されたのである。
その時の流れが、現代でもギリシャの彫刻の中に一部残っているであろう。
あれを凌ぐ彫刻がいまだにあると思うか。あれにはレムリアの風が入っているのだ。レムリアの時代に研鑽した者たちが残したものなのだ。
芸術という一点だけを見れば、今回の芸術、今回の文明における芸術というのは、まだまだ赤子のようなものなのだ。
今回は、知性により悟りの段階論というものを説かれた仏陀という方が、初期にお出になられ、アモール、イエス・キリストの愛の教えがこの地上に流れてきた、そういう形で悟りというものを人々が追求する時代だったのだから、芸術自体がそれ程進歩しなかったのも仕方ないのだ。
しかし、大天使ガブリエルやミカエル、ラファエルという方たちが、数々の名画や彫刻というものを残されてきているはずだ。そういうものを通して、人々が芸術をかいま見ながら、神の存在というものを知らしめるように、それなりの指導を、我々もしてきているのだ。
最後に、本物を残せ。ギリシャ以来出ないなどと言わせない、本物を残しなさい。それには、わかるか。そなたの体の中に大天使を降ろすような悟りを保たなくては、それだけの絵は描けないのだ。
レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロが、彼らがそれだけのものを降ろせたということ、それは彼らが七大天使クラスであったからこそ、それだけの指導が受けられ、それだけの光を塗り込める作品を降ろせたということなのだ。
彼らのもともとの器もあったであろう。しかし、器を超えた悟りというものが、その作品に色濃く出るのである。
我々の文明ではそうであった。作品を見れば、その作家の悟りの段階がわかったのだ。だからその方に、そのチームに、社会を統率する権限が与えられたのである。社会を任せても、この方たちならば大丈夫であろう。そのようなことを思って社会を治めさせたのである。
そうでなければ、とても今回のような非現実的な、非日常的な芸術家たちに社会を治めさせるなどという、恐ろしいことはできないはずであろう、今回の文明では。
我々の時はそれができたのだ。トータルな人格においても、悟りにおいても、素晴らしい芸術家が出ていったのだ。
だから、大天使といわれている方たちは、芸術の部分でも素晴らしい芸術を降ろせるのだ。その当時に彼らは磨いていたのである。
大天使として法を、神の法を降ろして、そして神の補助者として、神の使徒として働かれているというのが、今回の彼らの素顔であるが、あの時代に彼らは芸術としての技量も磨いてこられたということなのだ。
でなければ、単に法のメッセンジャーがあれだけの芸術作品や絵画作品を、降ろせたであろうか。
私はこの天上界の秘密を今、明かしているのだ。覚えなさい。よくよく心に留めなさい。
悟りというのは、その方たちの悟りの高さが作品に出るのである。あなたが七大天使のように悟れというのは無理かもしれない。でも、あなたも相当な方なのですよ。もっと自信を持って、そして、かたくななその心を解き開き、人々に対する大いなる愛の使徒となった時に、あなたの悟りは一段と高さを増し、そこに大いなる神の器としての光が降りてき、そして作品の中に生かされるのです。
それが光の芸術ということなのだ。
個人個人の悟りあってこその光の量なのだ。わかるか。
2003年06月22日 マヌ 「オリオンの悟り」
2004年12月11日 マヌ 「わたくしはいつも盛装して出てきています」
2005年02月09日 マヌ 「神と芸術」
2005年08月20日 マヌ 「男女の法」
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2006年04月01日 マヌ 「愛の修行の惑星」