悟りと霊道
日蓮聖人 2003年8月9日の霊言
あのーご覧になったはずだと思いますけれども、その中で、今回学ばれたのではないでしょうか。だから私とて出た時に、決して霊能力というものを全面に打ち出してやった訳ではないのです。
ただ、ただ人生を地道に堅実に、神の使徒として、死にものぐるいでその時代を生き抜いたという、その結果が菩薩行であり、菩薩としての生涯を、価値を決めていくというだけなのです。
霊能力というのは、基本的には関係ないです。逆に、霊能力が無くてもあなた方の澄んだ心の窓を開いていた状態の中で、己が使命を悟って、そして守護霊と一体になり、あなた方の使命を本当に自覚することが出来るのであるならば、それは立派な霊道であるということ、霊能力ということです。
我々の悟りの段階における霊道というもの、その阿羅漢の境地における心の窓を開いていく霊道というものとは、基本的に違っているということ。
非常にそれは質の高いものであり、それをみんなに求めていたら、高橋信次が、高橋信次という方が生前おやりになったように色んな会場に来られるおじいちゃん、おばあちゃん、色んな人たちを通して自力で仏陀の悟りで阿羅漢で霊道開く者たちがたくさんいるわけではないのです。
そんなものはほんの僅か、ごくごく僅かであるということですね。で、もし過去開いて、今、阿羅漢以上であったとして、その者が生まれていても今世霊能力を出すかどうか、それは本人が開いていたがゆえに菩薩であっても、ただ落ちていっているということが事実なのです。
霊能力、霊道の自己管理ということがどれだけ大変なことか。
それが、それを分かるのならば、菩薩であったとしても霊道というものを開かずして今世の人生計画を立てようと思って出て来る、菩薩行の計画を立てるうえでは霊能力は持たないと、今世そういって計画を立ててくる者たちも多いのです。
霊能ということ、霊道を開くということが今回、あなた方もやってみて思うでしょうが、霊道開いたとたんに魔にやられる。
知識不足であったり、力不足であったり、魔と戦う者と悟りの中で、守護霊と同通していく力というものが魔に弱い場合もありますので、非常に地上に生まれた場合、危険であるということです。
それで神の評価は霊能力があるか無いか等ということは、少しも評価の対象にはならないのです。
神の使徒として生きるということ。仏の仏弟子として生きること。それは神の法、仏の心を我が心としていかに多くの人々の為にこの地上を照らす光の天使として生きることが出来たか。
それだけが菩薩行、神の使徒としての価値を決めることであって、けっして霊能力があるということ、神の言葉を伝えられるということだけがけっして霊道であり、価値のあることではあるということではないということですよ。分かりますか。どうもあなた方は、霊道現象ということと悟りをごっちゃにしている。
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