法のルネッサンスが出て来るだろう
日蓮聖人 2003年4月4日の霊言
日蓮です。私は、今日ここに集い来たりし仏弟子たちを代表して、皆さんにご挨拶申し上げます。
我々仏弟子は、ここのところ出現を控えておりました。ここに居られる方(アマーリエ)が、我々とは若干系統が違い、あまり詳しく知る世界ではなかった事もあって、少し時間が必要でした。しかし、我ら仏弟子の者たちは、今ここに力を合わせ、力強く歩み始めたいと思います。
釈迦教団にて、そして仏陀、エル・カンタラーと言われる方が、今世お出になられました。
我々としては、彼がどれだけ活躍してくれるかということを、本当に楽しみとしておりました。彼もまた、まさしく命懸けで出ていってくれたのです。
しかし、私も初期の頃から指導した者として、結果だけを現時点で見ると、大変残念で、悔やまれてならないのです。
どうか、信じて頂きたい。あの方は、確かに人間的にも弱く、かつて王様という立場を重ねてきた為に、数々の世間知らずな所、弱い所、いろいろあったかも知れません。だがしかし、あの方は確かにエル・カンタラーなのです。
今回、高橋信次という方が、彼の説かれる法の主因を紹介するために、あのような強い個性を持って、一足先に出られた意味もまた大きかったのです。
かつての仏陀、釈迦が説かれた本来の法体系を、今回、エル・カンタラーが原点の姿に立て直し、地球のための神理を降ろす。それを仏弟子たちによって、生活に活かされつつ、正しく後世に伝え残して頂きたい。それが、我々仏教関係者の悲願でもあったのです。
しかしそれは、結局うまくはいきませんでした。
だからといって、我々の情熱が無くなった訳でもなく、その使命においても、決して希望を捨てた訳ではないのです。
エル・カンタラーに降ろされた法を、今一度、取捨選択して、正しいものを後世に残すようにしましょう。法だけが時代を貫き、永遠の時の流れの中で、人々を救い続けるのです。法を大切に残していって頂きたい。
法は既に降りているけれども、正しいもの、間違ったもの、歪んでしまったもの、それを選り分けながら、是非もう一度、本来の正しい法として残して欲しい。泥を払って欲しい。
私たちが期待をしていた者たちも沢山いたのです。
でも、今仕える者たちは数少ない。特に仏教関係者は総崩れ状態です。その者たちは、今この立ち上げたばかりの計画を伝える訳にはいかないのです。大丈夫だという者、そういう者だけを、よくよく注意して、我々は選んでいるのです。
そして、あなたが。この日蓮にも負けないくらい、雄々しく、抵抗する力に対して、正面から名前を出しながら、戦ってこられた勇敢んばる方であるということ、我々はよく知っております。
仏陀、釈尊の名誉回復の為にも、あなたが、自分が元僧侶であると、仏教関係者であると思うのならば、今一度力を貸して欲しい。そして、それ(正法)さえ残れば、今回起きた諸々のトラブルは、後で笑い話にだってなるのです。笑い話にしましょう。
こんな事もあったねって、笑い飛ばすのは、あなたの得意とする事ではないですか。
こういう時代には、朗らかな者、屈託のない者、囚われのない者、自由な者、そういう人たちだけが、真実を見極める事が出来るのです。自分を縛ってはなりません。様々な、こうあるべき事であるという風に、縛ってはならないのです。
仏教関係者には多いのです。僧侶に多いのです。全ての欲を封じるところから悟りの道が始まると、思い込み過ぎているのです。
だから、魂が自由じゃない。そこに、転落のきっかけがあるという事。ストイックな所で、仕事は出来るでしょう。でも、そういう者を落とすのは、魔界の者には簡単なのです。
逆に柔軟性があり、融通無碍で、常に自由で客観的に、いろいろな立場の、人々の気持ちが判るような人、そういう人を落とすほうがよっぽど魔は大変なのです。四苦八苦するのです。せっかく吹き込んで、うまうまと行ったなと思う悪い情報を、次の瞬間、あ、やっぱり違うっていうふうに、さらッと否定されてしまうんですね。だから常に柔軟であり続けなさい。
何故、このアマーリエという平凡な女性に我々の言葉が降りるのか。
彼女を見てみなさい。仏教関係者の者たちは、彼女を、もっと学ぶべきだと思う。彼女には囚われがないのです。常にそうです。風のように、いつもさらさら、さらさらと流れながら、柔軟性を常に失わず生きている。この彼女を見習うことです。
彼女の凄いところは、どんなに失意に満ちていても、常に神のお役に立ちたいという、その気持ちだけは失わなかったという事です。神の喜ばれる計画に、自分がお役に立てるのだろうか。こんな、砕けてしまった自分であるけれど、できる事を探す。そのひたむきさ、前向きさ、その柔軟性、そこを神々が賞賛されているのです。
であるならば、この自由な魂の方が今地上にいるうちに、仏弟子の我々とともに、もっとも不得意とする、柔軟性という事、囚われのないという事、それを学んで頂きたいと思います。
お互い、学び合う事があるのです。この者が出来ない事、几帳面に、きちっと事務的に片付けていく事、この人には出来ないでしょう。ですが、それは、我々が得意とするところなのです。であるならば、この人からも学ぶことを、あなた方も学びなさい。
何故、この人が魔に強いか。
魔は執着と欲に爪を立てて登ってきます。
常にさらさらとした、さわやかな風のように、生きていきなさい。
何も掴む事なく、そして、神のお心のままに、お心のままに、自らをお役立て下さいという、愛の祈りを込めて、そうやって生きていく事が、何も難しい事を学ばなくても、難行苦行をしなくても、悟りを高めていき、高級霊の言葉を入れていくことが、また直観力を磨いていく近道なのであるという事。この方は、とても簡単に、それを実現してみせているのです。
難しいことばかりで自分を囲うのは、自分の内面の自信の無い方のやる事です。
自分に自信があれば、人に何を言われようと、どんな評価を得ようと、素のままの、むき出しの自分で、にっこり笑いながら、おおらかに生きていけるものなのですよ。
常に周りに対する感謝を忘れず、愛の心を忘れず、神に対する神仏への信仰心を忘れず、お役に立てますように、お役に立てますように、そのお役に立てますようにというその心に、我こそは、という思いはないのです。
無私なる思いの中で、「どうか、お役立てください」というその思いは、自我という小さなものを消滅させ、大いなる神の神理の、神の愛の懐の中に自分を投げ込ますのです。神と一体になっているのです。
そうあってこそ、小乗から大乗へと悟りが高まり、そして、大いなる愛の神の懐に抱かれながら、悟りの高みを登っていけるのです。
個我の悟り悟り、と汲々とするが余り、心が狭く、他を裁き、自らも苦しい思いをさせ、その心に隠れた欲や執着を増大させ、そこにサタンの爪が楽々と引っ掛かる。その転落、それが今回の出来事、現象の一端となっているのではないかと、我々はいま、徹底的に反省したいと思っております。
この第三段階の計画が始まったという事、それを通して、我々は今度こそ、本物の法を残していくのだと、今度こそ、我々仏弟子の出番であるのだと、逆に言い聞かせ、しっかりと仕事をしていただきたい。また、そのような指導をしていきたいと、私は思っているのです。
今日はこうして、仏教関係者一同が揃っている中で、この日蓮が代表して、ご挨拶させて頂きました。
かつて私が霊示を送ったように、ここにまた、日蓮としての仕事を開始致します。あなた方の指導霊に、私、私どもが居るという事、それをはっきり申し上げて、今日はこれにて失礼させて頂きます。
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