屋根の上でははしごはいらない
モーゼ 2004年1月11日の霊言
けっして裁いているわけではないのですよ。私は正義というものを常に説きながらきました。本来の正義というのは、大きな目で見たときに、何を一番するべきか、何が真であるか、信じていくか、そのときの判断において、正義という言葉を私は使うのです。使うのであって、けっして正義という名のもとに、まわりが悪だと言って切り捨て、責め、上から見下すようなことが正義ではないのです。
すべてのものを本来の姿に戻し、すべてのものを本来の姿の中で生かしていきたいから、そのために私は日夜戦っているのです。
サタンに対してもそうなのです。ミカエルもよく誤解されますが、けっして、サタンを裁こうとしたり、サタンと戦うことで封じ込めようとしているだけではないのです。
裁いているわけではないのです。本来そんな姿で、醜い姿でいていいわけがない。誰よりも知っているミカエルは、そう彼に言っているのです。
「お前はそんなものではなかったはずだ。」と。「何をやっているのだ。」と、彼独特の強い口調で言っているだけなのです。それは、誰よりも深い、サタンに対する愛があればこそ、このようなところに赴いて、説得をし続けているのです。
私は、この者と林田さんという方が、ルシファーに対する談義をしているのを何度か聞いたことがあります。
「サタンにはサタンの使命があり、サタンだって存在を許されている以上、彼を責めてはいけない。」と 。「アメリカのようになってはいけないから、イスラムと正義の名のもとに戦うのはいけないから、だから私は、戦いは好まない。」ということを彼は延々と論理の中で言っていたと思います。
ある意味で、非暴力の戦い方という意味で、まぁ彼の理論もわからないでもないと思いますが、でも、我々のような立場にいる者から見たならば、それはもっと達観した意味での愛の姿がないのだと、認識能力がないのだと 。ほんとうに愛していればこそ、あなた方は子どものことを、お尻を叩いて躾(しつけ)をするではないですか。自分の子供の将来、社会に出て恥ずかしい思いをしないために、けっして人間として落伍者にならないために、お尻を叩いて躾をした経験はお持ちだと思います。
これ、最後になってきたときに、サタンが表面化してくるので、覚悟はしっかりと決めていただきたいと思います。
とにかく身の回りに関して隙をつくらないこと。それで、何度もこの者が言っておりますが、サタンが角を突きつけてくることは、人の心の中に、人間関係の中に、不信感というものの中に、撹乱してくるということ。その現実をしっかりとわきまえられたならば、心を統御し、絶対なる信頼でお互いを、仲間同士結びつけ合いながら、信頼しながら、歩んでいただきたいのです。
不信というものの中に爪を立てられると 。
「仲間のためには死ねる。」と、戦闘系の者はそういうふうによく言います。仲間のためには死ねると思わなければ、彼ら自体が危ないのだと、それを戦いの現場を踏んだ者たちはよく知っているのです。
今回の責任者に、このサタンとの戦闘の経験者を指名したのはそこなのです。最終的な、こういう事態がこじれたときには、相当我々の計画がサタンによって撹乱されたときであろうということは、我々の中でも想像ができたのです。だから三番目には、こういう戦闘系の者が責任者になるように、魔を封じることができるような責任者を出した。どんなにサタンが卑怯な手段を使ってくるか、撹乱してくるのか。それはやはり、その現場に出た者でなければわからないものというのがあるのです。
そこがあまりに、仏教関係者、キリスト教関係者で出てきた者たちはわからぬものがあって、守るにしても地上の者たちの自由意志というものがあるので、守りきれる時と守りきれない時というのがあるのです。
我々が必死に止めていたとしても、その手を振りほどいて、みんなで今回のように行進して地獄に行ってしまった場合には、それを止める権限は、天上界の者には、九次元といえどもないのです。
それを考えると、地獄に行くということはどういうことなのかということを、最終のこの第三計画の段階の中で、人類が学ぶきっかけになったのかもしれないのです。どんな九次元の者でも可能性があるということ。
そして、なぜあなた方が一部のサタンたちにここまで負けてきてしまったのか。これは戦闘系に関わる者たちは知っていますが、あまり一般的に学ばれ、訓練を受ける内容ではないので、サタンとの戦いをどうするかなどというのは、一部のスペシャリストたちの課題であるので、あまり公にはされなかったのですけど、その者たちが前面に出てこなければ駄目であると、それくらい、地球の地獄というものが最悪の事態であるのだということ。
だから、地球神霊がここまで苦しんでおられる。宇宙文明の仲間入りが地球民族にはできないのだということ。その一連の認識というものが、いくら言っても人びとにはわからなかったのですが、いよいよここまできたかと、まぁなるのではないかと、私は現場を踏んでいましたので、最悪の場合にはこうなるだろうなと思ってはいたことなのです。
だからこの者にも私が、「こういうこともあるであろうと言ったではないか。」ということを、最初に出てきた時に言ったはずなのです。
サタンたちの力というのは、今はひじょうに獰猛になっているのです。できることだったら、核戦争で地球人類をすべて皆殺しにし、その根源に宗教戦争というものをもってくることで、神に対する不信、神を信じるがゆえに全人類が殺し合ったんだという、心身ともにボロボロにしようと、神への信頼も打ち砕いてやろうと、そして、地獄に大量にもってくるために、核戦争というものをお互いにし合って、地球を全部、真っ黒な黒い地獄霊で覆おうとしているのです。そうなったら、もう手がつけられなくなるのです。癌化するのです、この地球神霊そのものが。そのようなことは防がなくてはいけません。
そのようなときに、強い薬をもってこられるのは、それは光の使徒たちの役割であるということ。あなた方、地球神霊を救う手段であるのだと思って、どうかこの癌細胞との戦いをしていただきたいのです。
これ以上癌細胞を拡げてはなりません。そうしたら、地球神霊が死んでしまうのです。地球にはまだまだ使命があり、まだまだ寿命があるのです。でもその寿命自体が短くなってしまい、多くの者たちの修行ができなくなってしまうのです。それでは地球神霊に対して申し訳ないというふうに私は思っております。
少し長くなりましたが、私もこの皆さんのところに出る機会というのは、ずっと楽しみにしてきたのです。今がいちばんいい時期ではないかと判断いたしましたので、今日は出させていただきました。
どうか皆さん、御自分の反省は必要ですよ。反省をしなければ、そこに魔が入ります。でも、反省をしすぎる仏教徒たちをただ見るにつけ、どうしてもっと自分を創造されたときの神の期待に応え、誇りを持つことができないのか。もっと唯一の、唯一の存在として、素晴らしさを、素晴らしき光を投げかけることができないのか。
自信を持ってほしい。清濁合わせ飲むというではありませんか。悪いところ、いいところも含めて、個性というのができるのです。いいところばかりでは個性はできない。だからいいところも含め、悪いところも含め、個性化してきた、その部分をもっと信じて、自己信頼をして、自分ならではの花を開かせ、この使命のために一丸となっていただきたいのです。
己自身の悟りというもの、境地というもの、それは実践を踏まなければ格は上がらないのです。
仏教徒たち、間違えてはなりません。アラハンであるとか何であるとか、そのようなものは、ひとつの角度から定義づけようとしたものであって、トータルな意味での悟りの段階論とはまた違うのです。それは、仏陀の知恵の中においてつくられたものです。確かにそれによって多くの者たちが少しずつ段々を上がって、多くの者が、地球的な部分で言ったらば、高いはしごに登っていった実績があったではありませんか。
でも、もう、知っていますか。屋根の上に上がったら、はしごはいらないのです。あなた方は屋根の上にもうすでに上がったにもかかわらず、はしごを手放したくないと、はしごにしがみついているのではないのでしょうか。
はしごが必要な者たちもいるのですよ。八正道によって、少なくとも煩悩から離れることによって、最悪のことを防ごうという者たちもいるのです。でも、あなた方は、もうはしごはいらないはずなのです。屋根の上にもう登っているのに、また、はしごを引っ張りだしてきて、はしごから離れられない。それが、仏教徒たちの八正道の使い方であり、悟り悟りと言っている、その姿のようにも見受けられるのです。
屋根の上に上がったら何をしますか。
大空にかかっている星々に対して、その宇宙の美しさが見えているのならば、その星の美しさを人びとに伝えてあげなさい。
「宇宙はこんなに広いんだよ。」
「屋根の上に上がったら、こんなに美しい星々が見えたよ。」
「他の天体にも素晴らしい人びとがいるんだよ。」
そういうことを伝えてあげなさい。
屋根の上に登ったというのに、いつまではしごを握りしめて、また、下の世界が恋しくなっているのでしょうか。
あなたにしたって、霊道を開く、開かないということで、アラハンだのなんだの、こだわっておられるように思いますが、あなたは屋根の上にもう登っているのに、いつまでたってもはしごが離せない、そのような仏教関係者のひとりと同じなのです。だから、いらぬ縛りがあるのです。
屋根の上に上がるまではね、煩悩からある程度離れる必要があるのです。だから仏陀は、そのための段階論として、修行の体裁論として、あのようなことをいろいろ言われたのです。
でも、屋根の上に上がったらね、それはもういらないんですよ。
屋根の上に上がったなら、はしごは無用なのですよ。
屋根の上に上がっての美しさ、満天の星々の美しさを、大銀河の美しさを、人びとに伝えていきなさい。
あなたの使命が降りているではないですか。小さな小さな仏教という枠の中に縛られていては、これから到来する神の神理を述べ伝える、そのような使命は、負うことはできないのです。
仏陀の世界だけがすべてではないのです。
イエス・キリストの説かれた愛の教えは素晴らしいけれども、それだけが全てではないのです。
イスラム教徒だって、なんだかんだ言いながら、性の退廃を、女性たちがあのようなことをすることによって、防いできたこともまた事実なのです。
そして、誰よりも、地球の中で神を信じ、生活の中に息づかせているのは、イスラム教徒ではないのでしょうか。神を見失っている西洋、欧米諸国の者たち、日本の者たちを見ていると、神という存在すら、もう心の中に認めることができなくなっている。架空の絵空事だと思っている。それなのに、イスラム教徒はどうでしょう。朝な夕なに礼拝をし、人生の中にしっかりと神というもの、神と共に生きるということが即信仰心であるという、生活の実践の場において、神と共に生きておられるではないですか。そのイスラム教徒に対して、自分たちの方が上だと言えるでしょうか。
だから、時代の中において、地域的なものの中において、それぞれの真実、必然性、そして、それが求められた目的という時代的背景というものがあるのです。それを引き受けながら、地域を担当しながら、我々九次元は、八次元のマホメットにしてみてもそうですが、引き受けて出ていった。そして、地球の歴史をつくってきたのです。
でももう、何度も繰り返しますが、もう今日は、そういう地域的なもので過渡期的な宗教ではなくて、最終的な地球正法的な部分において、根源的な神々はみな仲間であるという認識にもっていかなくてはいけないのです。それをやるのが今回の計画なのです。
我々の声をストレートにこのように発信するという、これは今までタブーとされてきたことなのです。
イエス・キリストの時代であったとしても、イエス・キリストですら、「私はモーゼである。」とか、「エル・ランティである。」とか、そういうことを言って、イエス・キリストが通信を受けていたわけではないのです。
モーゼのときもそうでした。
でも今は、ストレートに名前を明かして、九次元から言葉が出ているのです。そのくらい我々も力を入れ、自分たちの身分を明かして出てきているのです。
そういう時代はそんな長くはないのです。何千年、何万年生きてきた中で、ほんの一瞬の今回のチャンスなのです。
日本に生まれていなければ、この日本語でこの言葉を聞くチャンスもなかったでしょう。正法に触れていなければ、我々が語る言葉の意味もわからないでしょう。その数々の難関をクリアし、数々のサタンたちの惑わしを乗り越えて、あなた方はここに集いました。
そのことに誇りを持って、命がけになって、満天の星々の美しさを、観衆に向けて、語ってほしいのだと。
屋根の上に登ったのに、はしごをいつまでも抱きしめて、もう屋根の上からはしごを降ろしなさい。捨てなさい。
あなたの心の中に、ねぇBさん、もう捨てるのです。いらないのです。あなた自身は、いらないのです。でも、はしごを登ってきた。登ってきたからこそ、屋根の上にいるでしょう。その経験は、あなたの中に大いなる知恵として、パーニャパラミタとして、ちゃんと蓄えられていくのです。それを多くの者の指導のときに使いなさい。
我々もそうやってはしごを登ってきたのです。平等だったのですよ。ちゃんとはしごを一つひとつ登ってから、屋根の上で、屋根の上から、今度は空に向かって飛ぶことを覚えたのです。そういう段階があるのです。
つまらないものに、もう乗り越えてしまったものに縛られず、己自身の人生に誇りを持って。
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