メッセージ
メッセージの一部紹介
いろいろな不遇はあるかもしれないけれども、でも、やはり、あなたたちの時代においては、恵まれた中において、このかつて、そのような神の使者として、不遇な目で死んでいった者たちもこの中にはいるであろう。命がけになって、やった者たちもいるであろう。でも、その経験から見たら、別な意味で大変かもしれないけれども、あなたたちがやることは、それほどの残酷な仕打ちは受けないのだから、ぜひとも頑張っていただきたい。
そして、このレムリア号の航海に、最後まで乗船できる者として、ぜひ、頑張っていただきたい。私たちはこの者と同じで、ひとりとて置いて行きたくはない。すべての者が使命を持ち、そして、今回の意気込みを持って出てきた者であるのを知っているからこそ、すべての者たちを最後まで連れて行きたいのである。
そして、この、今ここにもいない、いずれ、この声を聴くであろう者たちにも語りたい。
今、地上にいる者たちよ。
そなたたちは神の子であり、そして、自らがこの大救世の計画を知り、大事な時代であるということを、よくよく認識し、意気込んで出てきた者たちである。
そなたたちが今、この救世の計画のために、天上界の我々の力となって、その使命を果たし、そして、力を貸してくれるのであるのならば、どうか、レムリアの者たちの力になってあげてほしい。
たいした事はできないといっても、ささやかな事でもよい。ささやかなものをもって、そなたたちがこの者たちを助けていただきたい。
それをもって、我々の世界の光の天使たち、我々の救世主と呼ばれている、この我々の世界の者たちを、神を助けることにもなるということ。
どうか、そのことを思って、できる者たちよ、そして、その使命を疼きとして、まだ生きている者たちよ、集まって来なさい。
ここに集まって来なさい。
光の下に集まって来なさい。
一度は見た、光の下へ集結した者たちよ。
また、光が失われて、途方にくれて、迷える羊たちよ。
もう一度光が、たいまつが、神理のたいまつが灯された。
この光の下に集ってきなさい。
そしてそなたが光の天使として、そなたたちが神の子として、本来の光を放ち、愛の化身として、そなたたちの本来の使命を果たしなさい。
そのために、そなたたちはこの地上に肉を持ち、命を持ったのです。
それ以外のために、そなたたちは命を持ってはいない。
この大救世計画は、何万年に一度と呼ばれている、壮大な計画である。
そのドラマの中において、ささやかであっても、光の天使としての仕事をしていきなさい。
けっして、この者たちの足を引っ張るような役割として、この地上の記憶の中に残してはいけない。
できることならば、そなたたちの力をもって、私たちはこの地球を愛の星に変えていきたい。
救世主が出ることをもって、光の預言者を持つことをもって、その指導者をもって、常に、こういう大計画の推進というのは行われてきた。
今、不幸なことにして大救世主が失われてしまった時であり、この者たちが立っているけれども、この者が降ろす霊言を通して、我らが言葉を聴いて、そして、これをもって、世の中を変えていこうとするのならば、その愛の言葉を自らが受け入れ、自ら、この地上において、具体的に行動し、愛の実践をしてくれるのならば、その我らが言葉を聴いたそなたたちこそが、自らの手によりこの地球を救うという、あなた方、一人ひとりが、救世主そのものであろう。
この地上を救ってこそ、この地球というものの本来の意義というもの、使命というものは果たされる。
救世主が救世主として立つのには、救世主というのは、単に天上界の言葉を受け、それを愛のもとに、神の指導のもとにより、人びとに伝え、実践する者のことをいう。
ならば今、あなた方がこのレムリアの計画のための手足として、愛の実践をするのならば、あなた方一人ひとりが救世主であるということ。
愛の光の天使であるということ。
自らはそれほどの力がないと、しり込みをすることはなく、自らの人生の最後にできることとして、やれるべき力を貸してほしい。
あなた方の力を貸してほしい。
その力をもって、みんなが手を取り合うことによって、つなぎ合うことによって、この地上を愛の星にしていこう。
これからはしり込みをしてはならない。
この地球がもう、滅びるか、滅びぬかの瀬戸際に立っている時、もうすでに、神の手が止められていた、マイナスのエネルギーの揺り返しが、もう、天変地異として地上に降りかかってきている時、いつまでこの時間を保てるか。それがこの我々との、時間とのにらみ合いになり、今、決められた時間の中における戦いとなっている。
その中において、ほんとうに大事なこと 。
それは肉体だけを救うのではなくて、魂を救っていくことに意味があるということ。
そして魂を救いながら、人びとが肉体を持っている者たちの意識を変革し、ほんとうに、愛と分かち合い、愛と信頼こそがほんとうに大事なことであるということが、人びとの心になって、広がっていった時、国を越え、国境を越え、民族を越え、宗教を越え、人びとは地球規模で手をつなぐことになるであろう。
そのことをもって、愛というエネルギーは地上を循環し始める。
その時にこそ、人びとは、我々は神の子であったのだと、神の星にしていくのであると、神のもとに帰って行くのであるという、高度な認識の中に、人びとは、今一度、神の子としての息を吹き返すであろう。
それであってこそ、神の子としてのルネッサンス、大ルネッサンス運動が起きるのである。
人びとは多くの物を持ち込み過ぎた。数々の欲望想念、不摂生、間違ったエネルギーの使い方により、自らの肉体に病をつくり、数々の遊楽な、享楽的な、根源悪のようなものをつくって、快楽のようなものをつくり、人びとの中に混乱している。それに翻弄されて、多くの社会的混乱が起き、そして間違った価値観の中において、人生の目的と意味を失っている。
人びとはそのことをもう一度、神の子としての基準に取り戻していった時に、数々の、あなた方がつくっていった、複雑怪奇な社会のシステムというものがシンプルに整理されて、神のもとにおいては、神理はとてもシンプルであるということを実現するような社会になってくるであろう。
病がなくなれば病院もいらぬ。そして、人びとを裁く裁判所などもいらないようになるであろうし 。社会国家をつくるため、そして、人びとが間違った方向でエネルギーを使うから、極度なストレスがあり、歓楽街というようなものとか、性的退廃を行うようなものとかがあり、そのようなものが、全部なくなっていくであろう。
そのようなところがなくなっていけば、幼い青少年たちが迷うこともなくなっていって、真に、魂が何の目的のために、若い命が目的をもって努力精進すればいいかということ、それを通して教育のシステムというものも、根本から改革が行われるであろう。
それを通して、みんな神の子であるということをもって、国家体制も変わり、国というものが変わり、そのうちに国境というものがなくなって、地球人類として、みんなが手をつなぎ合う時代が来るということ。
「我こそは、我こそは」と思い、富や宝や、財産や財宝、宝石のようなものを求めるから、必要以上に、幸せになる以上に、そういうものを求めるから、人びとはしゃにむに働き、おかしな物を蓄える。そのようなものは、すべて、価値観をガラガラと変えながらなくなっていくであろう。
宗教においてもそうである。かつて、カイトロンが言ったと思う。かつて、あのような星においては、宗教はないということを伝えてある。宗教というものは、単なる、自らが神の子であるという、愛の教えそのものであるということ。人類どうしが、みな神の子であるから愛し合おう、信じ合おうという、分かち合おうという中において、物質文明の中における、貨幣経済というものも変わってくる。
そうすると、銀行とか、それから流通組織というものも、大いに変わってくる。
神の子人類たちは自らの個性と役割において、精一杯仕事をする。その中において、物というものが、欲しい物は分配され、行ったら貰えるようになってくるであろう。
すぐにはそのような社会ができないのはわかっているけれども、その代わり、自分でできることをもって、勤勉に神の子として貢献しようという仕事をしていれば、物事というのは循環していく。
人が幸せになるのに、たくさんの物はいらぬ。そのように衣類がたくさんいるであろうか。食べ物でもたくさんいるであろうか。食べ切れるであろうか。子どもの教育をするのに過剰な教育費がいるであろうか。
ほんとうに学ぶということは、人を、子どもたちを、過剰な教育環境の中において、ない才能を磨かすことではなくて、ある才能を活かすための中において、自ら気づき、研鑽させていく道を行く。そうすれば教育費においても、教育環境においても、おのずと別な価値観、尺度というものが現れてくる。
病院とかそのような施設においても、圧倒的に病人が減るであろう。そのようなことをもち、魂が永遠であるということを思うのならば、むやみな延命治療というものもなくなり、短い命には、短い命なりの意味はあるということ、修行の目的があるということを思ったのならば、医学においてもそのようなことが進むということ、そのようなことが望まれないということも、シンプルに整理されてくるであろう。
あまりにも、人間たちが物質界の中において、欲望において、複雑怪奇な、難解なものにしてしまった、この物質主義の、科学の混乱の時代の中において、次の世紀においては、神の子であるということが、永遠の命であるということ 、この地上においての本来の意義と目的ということが、しっかりと人びとの心の中に根付くのならば、社会の中において、ほんとうに幸せなことは、神の大いなる現われである大自然とともにシンプルに生きること 。
そして、科学文明をもって効率的に生きることをもって、人びとは圧倒的な自由な時間というものを得るであろう。
過剰な、余分な物質というもの、お金というもの、そのようなものに目をくらますことは、何の意味もないということがわかる。
そして、自らの才能を、そして、他者の力になるという、愛と思いやりの精神に満ち満ちて、互いが助け合い、高め合うことをもって、人生の目的とする時代が来るであろう。
そうしたのなら、多くのものはいらないから、そのようなたくさんの生産をする必要はない。
でも、畑を耕したり、お魚を獲ったりとか、そういうものが大好きな者たちもいるから、自然の中において、効率的に食べ物というものが生産されて、人びとはあくせくしなくなる。
そして、その中において、文化、芸術、そして、次の科学文明における爆発的な飛躍というのが起きる。
今は戦争とか、つまらないことで足を引っ張り合い、エネルギーを浪費しているから、まだまだ発達しているようでいても、根本的なところでは飛躍していない。
でも、愛の教えというものが根本的に根付いていったのならば、次なる扉が開かれ、人類は他の宇宙に行けるような、飛躍的な理論というものが人類にもたらされるであろう。
そういうことをもって、人びとは宇宙へと出て行き、そして今度はどうするかというと、自分たちがある程度気づき得た、愛と奉仕の精神を、神の子としての幸せというものを、他の、まだ未開の星に行って、分け与え、今の地球のように滅亡していこうとしているような他の人類たちに対して、何かしら手助けができないかというような、そのような指導とか、他の惑星に行って、その霊人たちを指導するようなものを、仕事を、ボランティアとして始めていくことであろう。
それがまた、宇宙規模の愛の循環となっていくのである。
我らもそのような惑星から、地球というものが立ち上げられてくる時に、やって来て、そして、そのような精神的な指導をしてきた者たちなのである。
そのようなことをもって、愛の循環とし、神の子としての教えというものが、宇宙規模に循環されて広がっていくのである。
認識の中において、まず、神の子であるということ、神の子であるということは愛の光であるということ。その尊厳を持つということ。その尊厳を忘れるから、サタンたちのようなことに、欲望に目がくらんで、自らを欲望と権力の中において、見失っていくことができるのである。
本来、神の子であるという、真なる誇りを持つならば、自らの不退転の境地において、どれだけでも、宇宙の根源の神からのパワーを引き出せるのである。
智慧においても、愛の量においても、力においても、我らが神の子であるということをほんとうに気づくのならば、宇宙の根源の神につながっている、我らが魂の中にある、そのラインによって、パイプによって、どれだけのエネルギーでも引き出せるのである。その鍵さえ、そなたたちがわかっていれば、一人ひとりがどれだけでもエネルギーを持てる。
我らが、もしモーゼという者で、力があるというのならば、我らはそのことを認識し、使える者たちなのである。
九次元といわれている者たちが、破格的なパワーを持つのは何ゆえかということは、自らが神の子という認識の中において、その極みにおいて、根源の神からのパワーを引くということを、その力として、我ならば、愛と正義いうものを通して、根源の神からのパワーを引くことができる、その認識に至っている者ということなのである。
それは我らだけの特権ではなく、そなたたち一人ひとり、地球上のすべての神の子たちにおいて、可能なことであるということ。
そこに至るには、まず、神の子であるということ 。自らの幸せだけではなく、他者の幸せのために、喜びのために、自らの人生を投げ出し、他者の悲しみ、苦しみのために、ともに泣き、涙を流し、悲しみを分かち合うくらいの、そのような観点を持てる者であってこそ、神の子としての心の扉が、エネルギーが開くのである。
無尽蔵に、神の、宇宙の、大宇宙の神からの愛のエネルギーというのは、無尽蔵に引き出せるのである。
そのエネルギーを引き出す扉を開ける鍵は、愛ということ 。愛という、神の子としての愛というもの 。その鍵というものを、その鍵穴に差し込んだ時、奔流のように愛のエネルギーというものは、力というものが、根源の神から流れ出でてくることであろう。
それがそなたたちの本来の叡智を開き、そして本来の力というものをパワーアップさせ、より多くの者たちを幸せにするために、救うために、このエネルギーを使いなさいという、根源の神からの許可の中において、我らは、その力を蓄えている者たちが、九次元の者たちなのである。
それゆえに、我らの力というもの、確信というものは、常に人類を指導しながら使ってきた。
自らの力のために使った時は、九次元といえども、その力は、扉は、ぱったりと閉められて、ただの人になってしまうということ。
九次元が九次元であるということは、自らの人生を、生涯を投げ出すことにより、ひとりでも多くの神の子たちの幸せのために、ひとりでも多くの者たちを愛するために 、そして、根源の神の愛の思いを実現する道具として、手足として、命がけでその使命を全うできる 、それを喜びとして、その使命として受け入れていった者たち 。その愛としての、慈愛のその姿そのままに、自らの個性を通して、仕事をしようとしていく、不退転の境地を持った者たちが救世主界にいるのでる。
そのような境地に、どうか地球人類から発した者たちも、ひとりでもなっていただきたい。我らが世界、地球人類から、進化した、到達した如来界、そして、九次元の者たちが出ることを私は望もう。ひとりでも出てくれることを待ち望もう。
他の惑星においては、その惑星から、次々と誕生してくる九次元というのがいる惑星というのがある。ほとんどの者たちが七次元以降、八次元如来界、そして九次元の予備軍のような者たちがいて、そして、九次元という救世主界の者たちが、次々と出てくるような、そのような高度に進化した惑星というのもあるのである。
できたら、そのような惑星に、いつかこの地球も、そのような愛の星に進化した、高度な認識を持った、愛の表現形としての、表現体としての惑星になることを私は望もう。
それには、まず、原点は今、私が語ったことにあるということ。
根本は神の子であり、永遠の生命を持ち、愛の奔流の分光であるということ。
愛そのものが、神の子の証であるということ。
そして、自ら、どれだけ多くの宇宙に神の子たちがいようとも、あなた方、一人ひとりの使命をもって、あなた方は神の子としての多様性の中における、個性を発現しなくてはいけない。
神の子というものを、もっとわからなくてはいけない。
その自らが、かけがえのない個性の中で、あなたの命が与えられたということを、もっと、もっと理解し、自らの人生を光らし、その個性の発現をもって、他の神の子たちのために少しでもお役に立ち、少しでも、他の神の子たちを愛していくために、命を捧げる、そのような愛の化身となって生きるということ。
そのことを認識するかどうかで、この地球が滅びてしまうか、次の宇宙時代に行ける、愛の星になれるかの、ステップが上がれるか、下がるかの、大きな分かれ目に来ているということ。
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