メッセージ
メッセージの一部紹介
実在界と呼ばれる天上界にあなた方の本体のエネルギーがあるのです。
そこにおいて、あなた方はずっと永遠の時を過ごすことができたにも関わらず、今回の救世の法が説かれるということをもって、わざわざご自分自ら、ひじょうに倍率の高かったこの日本という場所に、この地上に、自らがお出になられたということ。
お出になられた理由は何であったかということ。
その理由は、この救世の法を通して、この地上を神の愛の星として光らすための大実験場としての今回の機会に、ひとつの役割を果たしたいと、命がけで思われ、この地上にお出になられたのではないでしょうか。
であるなら、高々「人生八十年」と呼ばれております。わたくしたちのときはもっともっと短かった。
この地上に生きる長さの中において、その葛藤の中において、必要ない苦しみを持つ必要はないのです。やるべきことをやったのならば帰っていらっしゃい。
あなた方が失おうとして怖れているものは何ですか。
地上の地位ですか、名誉ですか、権威ですか、お金ですか、または家族ですか。
家族であったとしても、あなたが本来神の子として神性を開き、あなた方自身の天命を全うして帰られたのならば、あとでこちらの世界にご家族が帰ってこられたとき、「よくぞわたくしの父は、母はこのような神命の中においてやってくれた」と、「わたしの娘はこのように素晴らしい思いで頑張ってくれた」と、誇りに思われることでしょう。
この地上だけの観点であなた方が考え過ぎるから、「苦」というものを抱きしめ過ぎるのです。「悲しみ」というものをつくり過ぎるのです。
仏陀は「生・老・病・死」というものを言われました。生老病死という中に、病というのは何であるかということを、もうすでにレムリアでは言われていると思います。
その寿命というものは、病というものは、その病というだけを言いましたら、その過去世の中での大量のカルマの清算という場合もございます。そしてその生命を、あまり魂を穢したくないから早く帰ってきたいというふうに設定した場合には、何かしらの病というものを設定しなければ帰ってこられないということをもちまして、病というものがあるのです。
だから、そのようなこととしてとらえたのなら、病は別に何も怖がることはないのです。必要以上に病むことはないのです。病を引き起こしている原因が、もし自らの心の中に原因があるのならば、その心を反省すればよいのです。
そして病はひとえに、ただただひとつだけの原因によって行われることではないということさえわかれば、自らが病と闘うことなく、病と寄り添って生きていけばいいのです。
そして老いていくということ。
それはいずれみんな生きていったらば誰でもがこの実在界に帰ってくるのです。この地上の高々数十年の命がすべてであるからこそ、老いていくことも苦しい。死んでいくことも苦しいのです。病ということもすべてを抱えて、苦の原因をつくってしまうのです。
でもあなた方に言います。
あなた方はすべて神の子であると。
そして永遠の命を持った生命体であるということを思ったのならば、今世だけにおいて苦しみを握りしめることなく、そして執着を捨てることにより、その苦しみの大半は消えていくのです。
握っているものは何ですか。
怖れているものは何ですか。
その地位や名誉、財産、そして家族も、そして肉体自体も、あなた方が一度離してごらんなさい。
何が苦しみがありますか、この地上で。
いちばん怖れることは神の子としての神性に目覚めないことなのです。
この地上で神の使者としてあなた方が目覚めた今という現状があるのならば、精一杯神の使者としての仕事をしていったのならば、あなた方に何も怖れることはないのです。
もしそれで命を奪われるようなことがあったとしても 、火あぶりにあったような者たちも、過去わたしのキリスト教の弟子たちの中にはたくさんいたのです。でもそれであっても、喜び勇んで天上界に帰ってこられたのです。神の使者として、光の使者として迎え入れられてきたのですよ。
魂にとっては栄光ある歴史になったのです。
あなた方もそのような神理の価値観を持っていただきたい。
地上は長いこと実在界で修行したことの結果の試験場であるということ。
そしてあなた方が神仏の使者であるということで地上に降り立ったときに、この地上をこの地球というものを神の修行場として、神の愛の星として光らしめるための、そのような使者として、神の代行者としてこの地上に生まれたという、そのことを思うのならば、あなた方自身が今何をやらなければいけないか。そして何を悲しむべきなのか。何がほんとうに苦しみなのかという、その境地にもう達せねばなりません。
今までのような初期のような苦しみを、初期のような悲しみを抱えるような人類であってはならないのです。そのときに、人類は魂の奥から解放されていくのです。
あなた方は死にたいと思っても、自らの魂の記憶をストップさせたいと思っても、たとえ死んでしまったとしても、それはストップすることはできないのですよ。死んだとたんにまた別の意識が芽生えて魂の永遠性というものを自らが実感するのです。
魂は永遠なのです。
そして神が無限の修行の中で、わたしたちに無限の時を与えてくださる中で、永遠の中でわたしたちは進歩発展し、自らの神性を開花させていくというそのような立場に、そのような場所をお与えくださっているのです。
それはこの地球だけではありません。ほかの惑星に行っても同じ修行が続行されるということなのです。
であるのならば、今のこの地上においてあなた方が抱きしめようとする、守ろうとしているものは一体何ですか。
あなた方の中にある地位や名誉、プライドは何ですか。あなた方の文明の中では意味があるかもしれない。でもほかの文明の中においたらまったく価値のないことかもしれない。
それはほんとうの意味であなた方の魂において、神の子としてほんとうの意味で、あなた方の価値を高めるものになっておられるのでしょうか。
それをもう一度考えていただきたい。
ほんとうの意味で神の子としての誇りを、神の子としての生きがいを守るために、あなた方が守ろうとするのならば、それは価値のあることかもしれません。
でもそうでない、それ以外のもののために目がくらんでいるのだとしたのならば、それは単なる執着により自ら自身の魂の進化を遅らせているだけかもしれません。
地球人類はもうそのことに気づかなくてはいけない。
魂の永遠のステップの中において、魂がこの地上の中における命だけで有限のものであるという認識を、もうあなた方は捨てねばなりません。
そして、愛というものが何であるか、自らが神の子であるということがわかったときに、神というものが宇宙という愛の根本原理であるということをあなた方がわかったときに、自らが愛の化身であり、愛の分光であるということをほんとうに理解したのならば、あなた方が愛をなしていかなければ何の意味もない存在であるということを学ぶことでしょう。
愛というものは、何度も言いますけど、条件付きではないのです。
まわりの環境のすべて一切のものを我が痛みとして、我が分身として感ずることにあるのです。
であるのならば、一見あなた方を誹謗する敵であると思う者たちも、ある意味で言うと神の子たちであるのです。
ただ迷い、苦しみ、わからない、自らが進むべき方向がわからないゆえにあなた方を非難しているのかもしれません。
でもそのときに、あなた方だって今まで間違ってこられたのですよ。あなた方だって自分自らが神の子であるということを気づかずに、神が宇宙の中でこのように無限の時の中で、ただただ黙って酸素を、ただただ黙って神の太陽の光を与えてわたしたちを育んでくださったことにまったく恩知らずなあなた方であったではありませんか。
それであるにも関わらず、神はただただ無償に愛というものを投げかけ、あなた方を育んでこられ、あなた方が進化発展するためにその環境を整えてこられ、そのために祈りをもってあなた方をこのように生み出してくださったのです。
その恩知らずなわたしたちであるのならば、そのあなた方を誹謗中傷する敵を赦すことをもって、神への恩に報いるということをもってもよろしいのではないでしょうか。
それをわたしは言ったのです。
「汝の敵をも愛せ」と。
「右の頬を打たれたのなら左の頬も差し出せ」と言ったかもしれません。それはひじょうに極論であったかもしれないけれども、でもある意味で、敵である彼らもあなた方と同じ神の子である、仲間である、兄弟であるということをわたしは言いたかったのです。
その者たちを裁くことなく、「汝、人を裁くことなかれ」ということも申したと思います。裁くことなく、汝の隣人を裁くということは己自身を裁くことになるのです。
愛の摂理の中においてやったことは必ず自分に戻ってくるということ。
そのことを思って、あなた方は同胞を愛しなさい。
それが自分の友を、自分の敵をも愛していくことが結果的に巡り巡って、原因結果の法則によって、あなた方自身が多くの方がたから愛されるという結果をもって、自らの幸福を生み出すのですよ、ということをわたしは申し上げたのです。それは神の根本的な宇宙の法則に則っているということなのです。
愛は循環するのです。
その方に与えた愛をもって、その人からだけ返してもらおうと思うから、苦しみがわくのです。
ほかの人たちを赦しなさい。そしてあなたの愛を求めている人は、数々の方たちがあなた方の身のまわりにいるはずなのです。
できることからしなさい。無理はしなくていい。無理をする必要はない。
でも、あなた方がやれる些細なことはたくさんあるはずなのです。毎日行き交う人ににっこりと笑って、「おはようございます」「こんにちは」と言うことも愛の一歩でしょう。そして、難民の子たちにただ五百円のお金を送ることをもって、その子たちが教科書を持ち、食べるものや井戸の水を掘ることができたら、それもまた愛の表現形でしょう。それ以外にもっとあなた方のように、我々の言葉を直接に出版物にし、多くの人々に対して愛の言葉としての、直接的な伝道という形においての神の使者としての仕事をするということも大きな仕事でしょう。
だが私生活の中においても、こういうレムリアの仕事においても、そして職場においても家庭においても、できる限りにおいて愛を与える存在になりなさい。
愛はむさぼるものではないのです。
愛は与えられると思うから怒りがこみ上げるのです。
愛を批判するものとして、批判されることに対する怒りを持つから、それは自らの苦しみになるのです。
あなた方を苦しめているものは、よくわたしも知っているのです。
でもわたくしの時代にも、わたくしが法を説く時代にも、数々の法敵という方たちはおられました。
数々の身の危険もありました。命すら狙われ、わたしは毎晩毎晩いろいろなところを渡り歩いていたのです。寝ることすらもままならない。いつ命を狙われ、この神理の仕事ができなくなるかもしれないと、弟子たちと共に逃げ回っていたときもあるのです。
そのことから思ったら、あなた方は今殺されることもなく、そして平和なこの現代の時代の中で、人権というものを守られておられるのです。
それを数々の霊人方があなた方に伝えておられたのです。そのことをジャンヌ・ダルクと呼ばれる方も、火あぶりになられたということをおっしゃれておられます。
そしてわたしのキリスト教の弟子たちも数々の火あぶりに、わたくしが十字架に架けられたということをもって、彼らも十字架に架けられてしまったという不幸な苦しみを負っているのです。
そして、あなた方が出そうと思われる、その明治維新の方がたにおかれましても、命を張って正義のために、現代の日本の今日(こんにち)ある姿を実現するために頑張られたことが、自らがこの刃のもとに命を散らせていかれた、若い命を散らせていかれたというその覚悟をもって、この今日の日本というものをつくってこられました。
そのことを思われたなら、あなた方は今命を狙われることはないのです。最低限、命を狙われることはないのです。
であるのならば、守るということよりも、愛というのは与えきりに与えるものであると 。見返りを求めるものではない、条件付きの愛は愛とは呼ばないのであるということをもう学んでいただきたい。そのような勇気を持っていただきたい。
その中においてあなた方の姿を見て、真に神の子とはどういうものであるか、神のお姿というのはどういうものであるかということを、地上に降りた光の天使のその姿をもって、人々は神の臨在というものを、実在というものを知るのです。わたしがあの時代に神の言葉をお伝えしたその生き様を通して、人々は神というものを感じたでしょう。
近年におかれますならば、マザー・テレサという方が、そのただただ与えきった貧民の中に、わたしの姿を見るという姿をもって神の愛というものをその行為の中において伝えられた、その姿を、マザー・テレサとその一門のシスター方、ブラザー方の姿を見て、「ああ、やはり神はおられるのだ」ということを多くの人々は感じたはずなのです。
神の子とは究極的には「愛の通路」として、神の光の通路として、おのが神性を光輝かした者の姿のことを、最終的な愛の化身と呼ぶのです。
愛の姿、愛の化身そのものが神の子そのものの姿であるのです。
先ほどから質問なさっておられる、愛の究極の姿は何であるかということを言うのならば、わたしたちは神そのものでない以上、神の子であるということ。地上に降り立った光の天使であるならば、愛そのものが何であるかということ、天上界の神より天上界の意思をもって、神意の代行者として自らを愛の通路として、地上における神の臨在そのものを、自らの器と個性を通して、精一杯に神の愛を表現したその姿をもって神の使者と言い、神の子と言うのです。究極的にはそこを言うのです。
それはわたくしたちだってすべて同じ。
九次元、八次元、七次元すべて同じなのです。
上に行けば行くほど自分の意識の中における愛するものの、愛として懐に抱えるものの度合いが違ってくるだけのことであるということなのです。
七次元からは自らの悟りだけではなく、他者を愛するということに尽きてくるのです。
他者を愛するということは、自らの人生をもって他者を愛することによる奉仕という姿になってくるのです。
奉仕は苦しいことではないのです。
奉仕というのは簡単なことなのです。
自らの中にある愛の神の子としての部分を、自らの家族、自らの兄弟たちを愛するために分かち合うだけのことなのです。
その姿を別名「奉仕」と言うのです。
自分のためだけに愛を使っても、愛は必ずや循環しなくては流れていかないのです。
愛するのはどんなにまわりに人がいようと、すべてが神の子であるということを思ったのなら、すべてが兄弟、隣人であるということ。
自分の肉親だけを愛しているうちはまだまだなのです。
血がつながろうと、血がつながるまいとすべて 、たとえばこの地球の裏側で泣いている子どもたちがいます。飢えの中で涙いっぱいためて、水がない、ミルクがないと言って、苦しい中で戦乱の中で逃げ惑っている親と共に、親ともはぐれてひとりぼっちで生きている子共たちはいるのです。
その者たちをもって別の国に生きているから、自分たちとは違う環境にいるから、そしてましてや自分と血がつながらない我が子でないからといって、彼らの悲しみを、彼らの苦しみを我が苦しみとしないようであっては愛の子とは言えないのです。彼らも同じなのです。
あなた方は潜在意識、神の子であるということをもって、あなた方の深層心理の神の子として一体になってつながっているのです。それを現在のスピリチュアリズムの中では「ワンネス」という言葉を使っているのかもしれません。
でも、そんな難しい言葉を使わなくてもいい。
あなた方は神の子であり、神の子としての意識の中において、あなた方は一体であるということ。
ここにおられる方がたは血はつながっていないでしょう。でもレムリアとしてみんな寄り添って同じ思いをしている。
あなた方は目に見えない力でつながっておられるのです。
それをもっと広げていくのならば、レムリア以外の方がたに対しても、そしてあなた方を誹謗中傷する方がたにおいても、ある意味であなた方は神の子としてつながっておられるのです。
そしてこの日本を、この世界を、地球を、地球の裏側に至るまで、そしてあなた方が考えておられる以上に、この地上にいる動物・植物・鉱物、この自然霊と呼ばれている、あなた方が知らない海を治める海神たち、竜神たち、山の神、空には空を治めるものたちがおります。
星々の中にいって、この大気を守っている空気の精霊と呼ばれるような自然霊もおられるのです。
花には花の精霊がおります。そのものみんながすべてが神の子であるということ。
神の子たちみんなが手をつなぎ合って、この地上をこの大宇宙というものを絵巻物のように紡ぎ上げている、それが神の交響楽のように、シンフォニーにように、この大宇宙を鳴り響いているのです。
それが神の愛そのものであり、神が望まれておられること。
神がこの大宇宙を創られ、この愛というものの中で、ご自分自身の愛の思いを、この宇宙を、大宇宙を通して表現なさっていかれようと、なさっている。
そのためにわたしたちは分光して分けられ、創られた神の子たちであるということ。その姿を、その位置というものを、わたしたちはもう知らねばなりません。
そうであるのならば、永遠の無限の時の中で、自らの神性の可能性というものを修行するという、そのような立場にわたしたちがいるのならば、永遠という時の中で無限に進化発展していくという中で、あなた方は汝の隣人たちを愛さねばなりません。分かち合わねばなりません。
彼らが、幼い砂漠で飢えている子どもたちに対して無関心であってはなりません。彼らとあなた方はつながっているのです。彼らの意識もあなた方の意識も必ずや、織り成す糸の中において必ずつながっているのです。
だから彼らに対して親切であり、愛を与え、そしてあなた方の隣人に対して寛容でありなさい。
愛は与えるものです。
見返りを求めてはいけません。
与えに、与えに、与え続ける中に、そして赦しに、赦しに、赦し続ける中に愛の根本原理があるのです。
そうやってわたしたちは大宇宙の神により生かされ守られ、今日まで生きてきたのではないでしょうか。
その感謝の思いがあるのならば、あなた方はそれを自分たちの隣人たちに分け与えていくべきではないでしょうか。
その意識を単なる家族とか身内だけではなく、この地球全部に、人類に広げていただきたい。
その人類全部に、地球人類すべてに広げられていったときに、その次に出てくるのは、今息を潜め、愛を与えるときを待っておられる宇宙の友たちが出てくる時代が来るということなのです。
宇宙の友たちは大宇宙の中で、自分たちが愛の中で神のお力の中で生かされているということを十分知っておられる仲間たちです。その者たちがやっと地球人類がここまで来たということを、手を叩いて喜んでおられる、その時を待っておられるということなのです。
その愛を与えたくて、でも今の段階でわたしたちにそのような優れた科学技術というものを与えてしまったのならば、わたくしたちの進化の法則発展というものを阻害することになるということで、今与えたい愛を必死でこらえながら見守ってくださっているということなのです。
わたしたちも愛というものを与える時が、ほかの惑星の人々に対して今度は受けた愛というものを返す時期がもうすぐ来るのです。
そのような、愛というのは循環し、分かち合い、与え合っていく中で、いつかそれが巡りめぐり大宇宙を巡って自分自らに返ってくるものなのです。
愛は循環し、最後自分に返ってくるということ。
それはこの地球だけで考えていたかもしれない。
違うのです。
宇宙の友はまったく違う、遥か離れた宇宙に行って人助けをしております。
わたしたちも最初に呼ばれた者たちは、遥か遠い宇宙からやって来ているのです。そしてその愛の摂理の中で、この地球という磁場を少しでも素晴らしい星にするためにわたくしたちは努力し、今日まで人類の修行場として発展させてきました。
これを次にステップアップさせることにおいて、無限の進化のひとつの過程の中における地球意識のレベルアップをもって、また別の生命体の修行場にしていきたいのです。
そして今度はわたしたちが地球から外へ出て行く形において 、今まで数々の宇宙の友たちに助けてきていただいたのです。このわたしたちの文明も、数々の宇宙の友により助けていただいたのです。
今度はそれをお返しする立場になっていく。そのような進化できるような惑星に早くしていきたいと、そのような愛の星にしていきたいと、わたくしは心から願っているのです。
そのために多くの魂が、宇宙の高級神霊というのが、この地球を修行場にするために、最初の立場で立ち上げていくために招霊されて、この地球に来ているのです。
書籍・CD
メッセージが収録されている書籍・CD
関連メッセージ
- 1998.03.30 イエス・キリスト
- 2002.09.30 イエス・キリスト
- 2004.08.21 アモール
- 2005.01.08 イエス・キリスト
- 2005.05.14 イエス・キリスト
- 2006.03.25 イエス・キリスト
- 2006.04.08 イエス・キリスト
- 2006.05.13 アモール
- 2007.07.28 イエス・キリスト