メッセージ
そなたたちは、見ているとあまりにも自己限定が多いということを、わしは思う。何をそんなに恐れておるのだ。なんと言われようとよいではないか。女好きと言われようと、酒飲みと言われようと、わしのような、素晴らしい境地に達している者もいるのである。
そうやって、「女に触ったから地獄に堕ちる」とか、「酒を飲んだから道を迷う」とか、そのようなつまらないものを考えるから、ほんとうの意味での大きな器の仕事ができないのである。大物という者はつまらないことは詮索せず、大きな大目標だけに焦点を据えて、自ら研鑽したことを命がけをもってやる者のことを言うのだぞ。
そなたたちの中で、そのような大きな器の者がどれほどおるかのう。おなごが好きでなけりゃ、この世は少しも楽しくない。酒も飲めなければ、喜びも半減するであろう。そういうものをすべての活力と変えて、そなたたちは命がけになってこの使命を果たしていく。そのぐらいの度胸とおおらかさを持て。
先ほど、国常立之(くにとこたちの)神(かみ)が言われたような、そなたたちの使命というもの、それを繰り返す気は毛頭ないが、わしはそなたたちに、「もっと大物として、器の大きな、魅力的な男として輝け」と言いたいんじゃ。
おなごが、キャーキャー騒がんような男でどうする? 酒の一杯や二杯、一升瓶の一本ぐらい飲めないでどうする? そんなことで地獄に堕ちるなどと思ってるような輩(やから)がいるから、この地上においてろくな仕事ができぬのじゃ。そのようなことを言うからわしは、「裏に行っとけ」とか言われてしまうのじゃがな。
だけども、そのような力も必要だということじゃ。それがそなたたちの心の垣根を取り払い、鎖を取り払って、そなたたちの魂の中にある本質的な力というのを開花する。そのような力となっていく、そのような突破口となっていくということをわしは言いたいのじゃ。
自己限定がある限り、自分はこうあるべし、これはできないと思っている限りは、ほんとうにその力を使いこなすことはできぬ。そこに、ひょっとしたら素晴らしい力が宿っているかも知れんぞ。でも、それができないと決めてしまったら、永久に出ないのじゃ。
あらゆる方向の扉を開けておけ。あらゆる自分に対する可能性を開けておけ。そして、ひるむことなく、そして、失敗を恐れることなく、それを味わいながら、楽しみながら仕事をしていくのじゃ。
大きな目標さえ、自分が何をしなければいけないかさえわかっていれば、そなたたちが道を誤ることはなかろう。数々の失敗があるが、あまりにも細かいことに、教条主義的なことにこだわり過ぎて、人間としてのおおらかさを、神の子としての愛の深さという素晴らしさを、寛容さを見失ったときに、釈迦教団は堕ちていったのではなかろうか。
自らを偉しとし、知天狗になったということはそういうこと。知だけがすべての上に立ち、知の階段を登ることだけが、すべての悟りの、究極の唯一の道であると驕り高ぶったとき、人はおおらかさをなくす。
縛りをいっぱいつけ、自らのあらゆる可能性を、自己限定の鎖で縛り上げてしまう。だから、みなが同じような型通りのやり方でしか、修行という形態の中で悟りを上がってはいけぬ。
でも、あらゆる道があるということ。その個性の分だけあらゆる階段があり、道があるということをそなたたちが理解するのであるのなら、いくらでも道は開かれようぞ。
魔が来ても、こっちから捕まえようと思ったら、あちらからするり、あっちから捕まえようとしたら、こちらからぬらり、そのように出てみよ。それぐらいの変幻自在の思いを持ってみよ。
そうすれば、そなたたちはいくらでも魔に引き倒されることはない。あまりにも頑(かたく)なであり、あまりにも一本気であり、あまりにもひとつの方向性しか、柔軟性の中に持っていなかったがゆえに、釈迦教団の今回の救世事業は倒れたのである。もっとおおらかに、もっと寛容さを持って、人の数分だけ可能性があり、人の数分だけ素晴らしさがある。入り口がある。
自らにおいてもそうであると思うのならば、人に対する裁き心もなくなるであろう。裏神であるとか、表であるとか、仏教系であるとか、キリスト教系であるとか、はたまた男が優秀であり、おなごは優秀でないとか、そんなつまらぬものに何ゆえに縛られるかというと、登り口がひとつしかないから、ひとつの方向しかないから、そなたたちは自己限定をするのである。
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