メッセージ
正しいと思うからこそ命がけなのはわかります。でも、自分の理解を超えたものに対しては謙虚になるという寛容さがあれば、自分のわからない者たちに対して一歩引いて、その者を受け入れるという、愛ある寛容さを示すことができるはずなのです。
キリスト教が間違っているわけではありません。キリスト教の者たちは、キリスト教の者たちで素晴らしいのです。イスラムの者たちは、イスラムの者たちで素晴らしいのです。仏教系の者たちは、仏教系の者たちで素晴らしいのです。ユダヤ教の者たちは、ユダヤ教の者たちでそれなりに素晴らしい教えを生きているのです。
そして、それ以外の数々の日本神道にしても、いろいろな宗教があります。そして、信仰というものを謳ってない者たちもおります。でも、その者たちもすべてをくるんで、神の子であるということ。神の表現体の一部であるということ。その多様性を受け入れるということ。その多様性が今、最終的に地球の上ですべてが明かされ、人びとの中に呈示された時代であるということ。すべてを統合していく時代であるということ。そのことをもって、今世の文明の終局を迎えているのです。それを、我々が人類皆家族であるということ。
多様性を、違いをお互いに認め合い、赦し合い、受け入れ合い、逆に受け入れ合うことにより、自らの進歩発展を促すような、お互いに刺激としていく。お互いに愛ある成長の過程として、お互いに受け入れ合っていくということ。その姿があってこそ、一歩、高等な、次のステップにいける人類となれることができるのです。
その寛容さがないから、ほんとうの意味で、「謙虚さ、謙虚さ」と口で言いながら、ほんとうの意味で謙虚さのない者たちが多い。
逆に言うと、今まで神職にあった者たちのほうが、実生活の実践というものを通していないから、あなた方の中に、愛というものがどれだけ互いに赦し合って、そして、その中で逃げ出すことなく、互いにいつまでもその楔(くさび)の中で時を重ねる、責任を持ち合うということ、守り合うということ。
愛というものがそういうものである、情愛を込めているものであるということを基本的に学んでいないから、あなた方はそういう、人びとに対する愛というものを通した寛容さというものを学べなかったのかもしれない。
自分たちが常に神の代弁者であり、法の権威者であるというような、そのような裁くような立場でいたのならば、いつまでたっても宗教を超えた愛ある統合というものが、地球レベルで行われるなどということはできないのである。あなた方が愛というものを語れば語るほど、信仰というものを語れば語るほど、その言葉は虚(うつ)ろな響きを漂わせる。
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