メッセージ
わたくしはわたくしの国土を、国民を愛しておりました。わたくしの愛する国民(くにたみ)たちが、幸せに平和に暮らすことができるように、そして、厚い信仰心を持って、神のお心のままに、この国土にも神の平安の訪れるような幸せな国を実現したい、それがわたくしの統治者としての望みでございました。
そして、できる限り、あの時代のハプスブルグ家の援護、守る力をもって、なるだけ文化人というものを育成し、多くの人びとを、文化というものをその時代の頂点へ導いていく、そのような役割というのを、わたくしはやはりもともと芸術関係も好きですので、やっておりました。
そして、その時代を、人びとを、平和な状態として暮らしていくために、いつの時代でも軍神、英雄といわれている者たちを通して、国家体制を安定させていくという、そのような役割もともにわたくしは持っていた者なのです。
そして、国の体制を通して、次の文化が流れていく。その時に出てくる様ざまな葛藤に、女性の母性をもって時代というものを包み、人びとの、男性たちの心で荒々しくなってしまう時に、わたくしの、女性的なるものをもって、人びとの心を治めていく、戦いを治めていくということを、わたくしはその役割として神に任命された者でもあるのです。
男性方だけで戦争をなさいますと、常に荒々しいものになり、そして侵略につぐ侵略はとどまることを知りません。
先日出ておりましたが、アレキサンドリスなども、わたくしと同じグループに所属する者です。彼のように、ひじょうに帝王学を身につけ、人の上に立っていくということ。そして、人民のために、いかに自分の人生を通して、神のしもべとして、道具として、自分の戦いというものを通して自分の使命を果たしていく。それが、そののちの神の思想、お心というものを、お考えというものを導いていく、そのよすがとなっていく、道しるべとなるために、自らの戦いはあるのだと、そのぐらいの境地に達した軍神たちだけが、このような使命を授かれるのです。
わたくしは同じグループにいながら、女性の、母性というものを通して、男性方というものを包み込むことにより、国対国の、無益な争いというものを防ぐために、わたくしはまたその役割を負っている者なのです。
女性がてらに戦争をして、とよく言われておりましたけれども、戦争が打ち続く、侵略につぐ侵略がある時代だからこそ、逆に女性的なる者が戦いの場に行き、無益な戦争をひとつでも減らして治めるという、そのような役割をする者があってもよいのではないかという、神のお考えの中にわたくしの使命があるということなのです。 それは人びとを擁護するだけではなく、自由へと、神のお心本来の喜びへと導く道であり、それゆえにわたくしたちは自由の神、自由を導く武力というふうに、自由の神々というふうに天上界では位置づけられているのが実情なのであります。
あなた方のお考えの中に、戦争そのものが間違っているのではないか、戦いそのものを起こす、私たちのような、張本人の者たちが神を名乗るのはおかしい、というふうにお思いになるかもしれませんが、わたくしたちの中では、けっして戦をいたずらに好むのではなくて、正義の戦いの中におき、まだ過渡期的な段階における、国土というものを、少しでも統一し、神のお心が広がるような、そのような政治体制、指導体制を引くために、近代国家にしていくために、ある程度の戦いはやむなきこととして受け入れ、その役割の使命を負っているだけにすぎないということなのです。
自分の中にある権力欲、支配欲、そのような領土拡大欲のようなものの中で、もし戦争というものを、戦というものをするのであるのならば、それは明らかに間違ったものでありましょう。
でも、もう、そのような時代も終わりを告げることを、わたくしは願っております。いつまでも神の子たちが、この地上で、自分たちの領土や、文化や、そのような宗教などの違いにより、いたずらな血が流れるということ、そのようなことはけっして賢い生き方ではないと思うのです。
今あなた方は、人間の魂が永遠であるということ。
永遠の転生があるということ。
魂において、親子であれども別の魂が縁を結ぶのであるということ。
そのことをもう学ばれておられると思うのです。その意味におきまして、親子というもの、その修行というものを通しまして、女性においてもわたくしは個人的に、親になるということ、そして結婚なさるということを、大いに勧める立場にあるものでございます。
女性が一人で生きていく、男性が一人で生きていくというよりは、やはり愛しあう男女が一緒になり、ともに助けあい、神様のご加護の元で、互いに協力しあってひとつの家庭というものを通して、そこに愛というものを実現していく、愛というものを社会に表現していく、そして自分たちの魂を磨く場として家庭というものを授かるということ。結婚愛というものがいかに美しいかということ。それを私は、心を込めて力説したいと思います。
いかなる相手であれども、一度自分が結婚して神より与えられたパートナーであるのならば、その方を心から愛し、その方のためにともに尽くしあい、二人で愛というものをこの地上に花咲かすために、実現させる場として、結婚愛というのは、実にすばらしい、ともに魂を修行し、愛を表現する場としてはかけがえのない貴重な場として、わたくしは、神がおつくりになられたのであると、わたくしはそのように思います。
それと同時に、もし望まれるのであるのなら、ぜひ親になるということを、子どもを授かるということに今の女性たちは躊躇なさる方が多いかもしれませんけれども、わたくしはぜひともおすすめしたいのです。
それはなぜかというと、わたくしのように、たくさん子どもを産んだものとして、まぁ、この者も、子どもの数が五人と多いようですけれども、子どもの数が多くなればなるほど、子どもというものが親とはまったく違う魂を持って生まれている、自分とは別のものであるということを、魂の次元で感じるのです。
それにはある程度の数を産んでみると、それは誰でもが学ぶことであると思うのです。自分とは違う魂修行のために、自分が一時神よりお預かりした子どもたちである。その視点を忘れないでいただきたいのです。
どうしても自分の付属物である、自分の一部であると思うからこそ、人びとは今、現代の女性たちを見ていると、溺愛し、自分のエゴの、自分の自己実現のための道具として、まるで、愛しているからという、母親として愛しているからと言いながら、子どもの人生を自分の思うがまままに操り、自分の道具にしてしまう。子どもには子どもの転生があり、子どもの修行があり、この地上に生まれてきた目的があるのだという、その個性を尊重したところにおいて、その子どもの命というものを花開かすために、一時育てさせていただき、そして、その子の適性、個性を磨き、見つけて、社会に向けて羽ばたかせていく、そのような役割が親であるということ。
それは子どもにとっても親を選ぶことでありますが、子どもにとっても、親にとっても、子どもの親になることを通して、親は親になっていき、そして人生の修行を、魂を磨くという、ありがたい体験をさせていただくというのが親になるということなのです。それは子どもを見守る、成長を通しての喜怒哀楽というもの、喜びや、悲しみや、苦しみを通して、病気などといってはハラハラし、子どもがしゃべれるようになったといって、歩いたといっては喜び、それを通して親になっていくということなのです。それを通して、自分も魂の修行をさせてもらっているということなのです。
でも、根本的には違う魂同士であるという認識を持たねばなりません。
それが、子どもの数が少ないという現代を、わたくしなどが見ておりますと、ひじょうにそこにおいて病的な癒着というものが、親子の関係において多いから、子どもを魂として尊重する、自分とはまったく違う転生の、ルーツのある魂であるということ。 自分も子どもを通して修行させていただいている、子どももこの環境を通して修行するために、この時代を、この家族を選んできた、そういうかけがえのない魂であるという観点を、あなた方はもっと子育てにおいて学ばないといけないし、気づかなくてはいけないと思います。
そして先ほどの、政略結婚ということがあると、あなたがたは思われたかもしれません。わたくしもわたくしの夫と会った時には、やはり親が決めたものでありました。国対国のこと、あらゆることを考えて、ハプスブルグ家というものを存続させるには、どうしても女性を王位につけなくてはいけない。そのために選ばれた夫でもありました。
でもその中において、私は運命を受け入れたという以上に、そのようになることが、すでに神世の世界ではもう決まっていたということなのです。全て決まって出てきているのです。
偶然はひとつもないということであるのならば、あなた方の親子関係においても偶然はない、ということを思われて、ご自分たちの運命をしっかりと受けとめるという、その厳しさが必要であるということを、わたくしは申しあげたいのです。
政略結婚というと、ひじょうに不本意なことに思うかもしれない。でも、そうなるであろう時代ということを見越して、自分が一緒になりたいと思う、縁のある方をそのように選んできてる。そのような時が来たのならば、そのように話がいくように持ってきている、というのが現状でありました。わたくしの夫もそのようにやって決まってきたのです。
そして、わたくしの子どもたちも、わたくしがひじょうに政略結婚のように進めていって、いろいろな国に送り出していったのですけれども、それに適合した娘もいれば、適合しなかった娘もおりました。それによって不幸になったり、幸せになったりした者たちもいるのです。ひどいところに行っても、そこでそれなりに幸せを見つけた娘もおりました。そうかと思ったら、満たされないといって放縦な生活をしたものもおりました。息子においてもそうでした。けっしてわたくしが言っても、自分なりの政治的なものをやりたいと言って、わたくしと意見が折り合わなかった者もいたのです。
でもそれは、その中において、わたくしはわたくしとしてやるべきことを実現し、そしてその次の世代の子どもたちはその環境、与えられた環境を通して、十六人のうちの十人なら十人が、まぁ十六人が、先に亡くなった子たちもそれなりの人生があったのですけれども、その者たちがその環境において、やはり今回生まれた上において修行したいというテーマがあったから、それを果たすために彼らはそのような環境を選んできたということなのです。
そこにおいて自分なりの幸せを見つける、折りあいをつけ、そのような一見ひどいような環境に思えても、そこで与えられた幸せというものを、喜びというものを見つけて、自己の魂の糧として、成長として、そして神に対する感謝として、周りの人びとに対する、感謝と愛というものをもって、自分の人生というものを生きるということができたのならば、そこにおいて政略結婚であったからといって、それが不幸であったと、全ての不幸の原因であったといういいわけにはならないと思うのです。
それは、一見、政略結婚のない、自由恋愛の時代と呼ばれているあなた方の時代においても、結果的にわたくしたちの目で見たのならば、結婚などというものは縁ある者としかしないのです。それは、わたくしたちの世から出てくる時に、あなた方が計画をしてきたものであるのです。そして、その縁の中で、まぁ縁がひとつということはありませんけれども、その中のいくつかの中において、自分が今世やりたいという修行を果たすために、自分で選び、計画してきた人生のテーマというものがあった。その中において、相手にぶつくさ文句を言うということは、まるでおかどちがいであるということ。わたくしはそれを申しあげたい。
そして、結婚する、しないもあなた方が選ぶことなのです。自由意志の選択というものがあります。
そして子どもも産む、産まないに関しても自由意志があるでしょう。でも、産むと決めた以上は、あなた方に授かった子どもたちがおります。
そして、子どもたちにとっても、あなた方親にとっても、それは偶然ではなく、すでに自分たちが自由意志により選択してきた結果であるということ。
お子様方、性別がどうであるとか、子どもたちがどうであるとか、そのようなことを嘆かれる方々を見受けられます。 しかし、それはあなた方が地上に出て行く時に、すでに縁を結んできた方々だから、そこにお出になっているということなのです。だから、女の子だけであるとか、男の子が生まれないとか、そのようなことを嘆くことは、本来は自分の計画に対して嘆いているのと同じであるということ。
そのような環境を通して何を自分が学ぼうとして出てきたか。
そして、子どもたちは何を学ぼうとして出てきたか。それを前向きに人生は捉えるべきであるとわたくしは思うのです。
なぜ、女の子しか生まれないのか。王位継承するにあたってなぜ女の子しか生まれないのか。わたくしにおいてもそうでした。わたくしの父などもひじょうに嘆きましたけれども、生まれても女の子ばかりが生まれ、そして母が体を壊し、もう子どもを産めなくなります。その中でハプスブルグ家の存続というものが、王位が途絶えてしまうのではないかと危ぶまれた時代でもありました。
でも、それはなぜであったか。それは、まあ、言ってはなんですが、わたくしが生まれていくための時代設定でもあったのです。そこにおいて、わたくしが生まれるということは、わたくしの両親にお願いをして出てきているわけです。その時にもし兄や弟がいたのなら、わたくしはわたくしの修行ができなかったでありましょう。わたくしが神より与えられた使命というものを、その時代の中で果たせなかったでありましょう。そのことを思いまして、周りに男子が生まれなかったのです。
でも、どうでしょうか。下手な男子が何人生まれるよりも、わたくしが果たした役割というのがやはりあったと思うのです。
そして、その中において、わたくしも最初の三人が女の子でございました。女の子ではなく、もう悲願のように、男の子が欲しい、欲しいということは、わたくしたち夫婦だけではなくて、周りの宮廷の者たち、そして、国民全てにおいても王子、王子という声があったのです。そのプレッシャーはひじょうにございました。わたくしは、女の子でもかわいくてかわいくてしょうがないので、別にどちらでも良かったのですけれども、やはりそのような立場にあった者として、王子を望まれておりました。
でも、最初の三人の子どもたちの中に、最初にもし男の子が生まれていたのならば、私は女帝となって役割を果たすことはなかったということなのです。だけども、最初に女の子ばかり生まれたから、やはりこれは入り婿の夫ではなくて、この者を、わたくしを女王にして仕事をさせた方がいいという、そのような流れに自然になっていったということです。そのことをもって最初に女の子が出て、そしてわたくしが、それで華々しい、ある程度国民に認められる女帝としての立場、女王としての立場を確立した時に、待ち望んでいたかのように王子が生まれてくるわけです。
それは、なぜであるか。
全部そこは計画されて出て来ているということなのです。そう、それぞれの魂が、それぞれの環境の中で、最大限に発揮して、修行ができるように、そのために結婚のパートナーにおいても、子どもたちの性別においても、どういう魂を自分の子どもとして生まれてくるかということも、全部が決まっているということなのです。
そのことを思われたのならば、今、男女産み分けとか、あなた方はいろいろおやりになっているかもしれない。でも、それにはわたくしは基本的に反対であるということです。神のお心をお心として、あなた方は地上で修行する身であるということをわかったのならば、わからなくても神のお心を信じることです。
子どもというのは神よりの授かりものであると思うのであるのならば、その家庭の中で預かった魂を、ただただ謙虚に、ただただ喜びを持って迎え入れ、たとえ女の子であろうと、男の子が五人、十人生まれようと、その魂を引き受けると約束したのでありますから、それを謹んで、喜びを持って、愛をもって、子どもたちを迎え入れ、育てあげていくという、そのような運命に対する受け入れというものを持っていただきたい。
それは、そこにおいてあなた方が、単に不本意な運命に翻弄されるのではなく、生まれてくる前に、すでにあなた方の個人の自由意志によって選択し、計画されてきた人生であるということ。そのことを人類はもう知らなくてはいけないということなのです。
愛というものの奥深くは無尽蔵にあり、未来永劫、私たちの魂が永遠の転生を超えて私たちが学んでいくことなのです。奥はないのです。どこまでも高い次元まで愛というものは深まっていくのです。
その意味を通しまして、あなた方はこの地上でどうあるべきか、どう判断するべきか、やみくもに不幸があると思わないでください。
先ほどから言っている親子関係、子どもの性別、ご主人との相性。性格の不一致で別れるのがほとんどなんでしょう。性格の不一致なんていうのは理由にならないということです。それを選んできたのであるというのなら、不一致があってこそ磨かれるということ。
このごろレムリアでも見ていると思いますけれども、本人にとって一番痛いことだからこそ、題材として与えられるということなのです。一番痛いものを通してでしか、人は成長できないということなのです。だからこそ、一番苦しいと思うこと、でも耐えられることを、範囲内で神はちゃんと大事なことを、大事な時期に与えられてくるということなのです。
それから逃げてはいけません。人生は逃げても何もないのです。逃げたら、ただただ成長が遅れるだけなのです。また別の時に、また同じ材料がやってきて、自分の魂を磨くという、痛い過程を経てくるのです。
でも、コツコツコツコツと、そのような流れの中で学んでいって、丸くなっていくうちに、魂は成熟を迎え、丸くて豊かな魂として磨かれてくることでしょう。
そのための大事な修行として、たかが数十年の地上の生命があるということ。
私たちの世界に帰ってきたのならば、波長同調の法則というのがあります。同じ者たちばかりが集まっているのです。同じ者たちがいるところでは磨かれないのです。やはり同じ者たち同士で、いたわり深いところでいたらば、自分の欠点なぞなかなか浮き彫りにされません。
三次元は様々な世界から出てきます。上にいたから完璧ではないのです。五次元の者より七次元の者が上にいたから、じゃあ完璧である、そんなことはないのです。七次元の者でも、五次元の者、六次元の者と一緒にいるうちに、自分の素晴らしいところも気づきながら、でもやはり自分の欠点、自分がいたらなかったところというのを新たに発見するのです。それには次元構造なぞ、次元の高さなぞ関係ないのです。未熟な、まだまだ未熟な魂たちが、少しでも完成した素晴らしい魂に成長していく過程の中において、素晴らしさがあるのです。完成したパーフェクトな人間なぞ、魂の誰一人として、たとえ今、九次元の、地球聖人と呼ばれている方だって、完璧な方など一人もおられないということなのです。
完璧を望むのではなくて、成長することを喜びとし、感謝するということ。それをただただ神に感謝して、私たちは昨日よりも今日、今日よりも明日、少しでも進歩、成長していきましょう。
そのためにともに手を取り合って、ともに励ましあって、つらい時は一人で泣かなくていいのです。なぐさめあって、抱きしめあって、一緒にこの課題を果たしていかれること。
そして、この救世運動のために、まだまだ多くの方々がこの地上におられます。その方々を恐れることなく呼びかけていって欲しいのです。その方々に何かされるということではなくて、その方々とともに何かできるのではないかという希望をこめて、あなたがたは新たな人びととの出会いを求めていかなくてはいけません。躊躇してはなりません。
それこそが、この者が言う、七色の虹を架ける、希望の女神と呼ばれている、希望の天使と呼ばれている理由でもあるのです。七色の虹を架けるとは、けっして一人ひとりの霊団のことを深く知っているわけではないのです。ひじょうに浅く広くといわれるかもしれません。
でも、あらゆる個性の者たちを愛し、その母性の中で受け止め、そして彼らの使命を、天命を果たすためにもう一度大空高く舞い上げていく。
そして、みんなで大調和をした姿の中で、神の素晴らしい虹という未来に対する希望をかけていこうではないか、そのためのお役をさせていただくのが、このアマーリエという魂の、神より与えられた使命そのものであるということなのです。
それをどうか、現代の人びとはわかっていただきたい。 けっしてわたくしが、この者が、あなた方より専門的に卓越した知識を持っていたり、抜きん出た技術を持っているわけではないのです。ただできることは、あなた方を受け止め、励まし、あなた方の天性の力を出すために、お力を貸すために、脇にいるというだけのことしかできないかもしれません。
でも、ひとつの時代精神を指し示しながら、あなた方を励まし、ひとつの神様の方向へ導く、誘う、そのお役をさせていただく。それがこの者が持っている力であり、そしてそのために戦っていくものが、この者に与えられた、神より与えられた使命であるということ。それを今日、わたくしは明かすために参りました。
書籍・CD
関連メッセージ
- 2005.02.24 ジャンヌ・ダルク
- 2005.02.24 平塚らいてう
- 2005.06.30 中山みき
- 2005.07.07 ヘレン・ケラー
- 2006.09.02 アマーリエ