スピリチュアル・メッセージ

無私なる思いで、神の子として命を燃やし続けよ

木戸孝允 2005年4月9日の霊言

木戸孝允

紹介動画

 今までの憲法、日本国憲法にしても、大日本帝国憲法と呼ばれていたもの、大日本帝国憲法はもうひじょうに古くなったでしょう、だから日本国憲法に代わってきた。そして、でも、それも過渡期的なものであって、その今の憲法ですら、今の近代国日本には合わなくなってきている。それは常に塗り替えられていくでしょう。
 日本国憲法自体が次に塗り替えられていく時、それは何になるか。それは精神復興運動、精神革命といわれている、本来の神のもとへ戻っていく、大ルネッサンスという革命運動が起きる、それのもとに憲法の条文自体が変わっていくということを、わたくしは前回申し上げているはずなのです。そのルネッサンスということが、精神復興運動ですね、それが本来が、人間が神の子である、永遠の転生をしていく中の、永遠の命を持った中における、それの今回の修行であるという、そのために神の子であるなら、あなた方は何をせねばならぬか。
 七色の個性を持ち、七色のすばらしさを持ち、神より創造されたものであるのなら、あなた方はこの与えられたわずかな人生のこの地上の時に、何をもって神に献身していきたいのか。それを人びとに問う。それあってこその地上の生命の本来の意義であるということを、憲法に唱わねばならぬのです。そういうような、精神的な復興運動、大ルネッサンスというのが起きるのが本来の計画であったのです。
 ギリシャの時にあり、中世の時にルネッサンスという精神復興運動というのが起きました。ルネッサンスというのは再生という意味です。再生、精神を再生させていく・・・。私は再生するというよりは本来、回帰していく、神の子であった者たちが、本来自分たちが神の子であるというところに、気づいていく、回帰していく、認識していく。そして本来の自分に気づき、再生し、生まれ変わっていく。そのようなすばらしさを、憲法に唱わねばなりません。そのまず精神的なところが、しっかりとできたのであるのならば、その精神的な高みができたという、認識があるのならば、それ以外の制度というものはどんどん順番に変わっていくのです。
 そのことは誰かほかの方もおっしゃっておられたと思います。ドミノ倒し的にどんどん、そんな組織体制というものは変わっていくのであるということを、どなたかおっしゃっておられたと思うのですけれども、それは我々明治の時、出た者たちも同じような認識を持っているのです。
 生き抜くとは、人間として生き抜くとはどういうことであるか。組織やひとつの体制や、憲法で、彼らができたでしょうか。彼らのような生き方ができたであろうか。
 西郷隆盛という人を見てごらんなさい。彼が組織というもの、体制というものにこだわったであろうか。彼は情の人でした。誠の人でした。彼が信じたのは常に、常に深い情愛の中で、人びとを愛して、自分を捨てて、この国家を考え、若い人たちを愛し抜いて生きたのです。そこにおいて、情をもって、多くの人びとを活かすということに彼は、樫の木のような、大いなるすばらしい大木のような思いで人びとの前に立ちはだかって見せたのです。
 その頑として大いなる彼の不動心の中に、多くの若者たちが慕い寄って来た。その大きな腕を広げ、その張った大いなる枝の葉の陰に、多くの者たちが、安らぎを求めて集って来たのです。それを彼はしっかりと抱きしめて、その時代の象徴として立っていったのです。
 彼はけっして自分の名を残そうとも思わなかった。彼自体が天国に入ろうとか、神に認められたいとすらも思わなかった。しかし、ひとつの時代を生き抜いた者として、彼のような情深き、愛ある人がいてくれたからこそ、あの殺伐(さつばつ)とした時代も潤いというものをもって、人の情を大切にし、愛に生きることがどれだけ大事であるかと・・・。けっして明治の偉人と呼ばれた、三傑と呼ばれた人の中においても、愛というものは不在ではなかったのだということを、彼は実証してみせてくれたのではないかと、わたくしは彼に感謝をしているのです。
 どうしても斬った張ったとか、誠とか、正義とか、そういうものばかりが横行した時代でありました。油断をすれば叩き斬られた時代でもございました。人が人を裏切っていった時代でもありました。その中において彼のように・・・、けっして小さき者であったとしても、弱い者で、若い者たちであったとしても、彼は大いなる愛で、情と申しますけど、愛であります、彼の愛であります、愛でもってその時代をくるみ、両手で包んでくれた。その愛をもって、彼はその明治維新のひとつの象徴となったのであります。だから彼がいまだもって、人びとに愛される理由ではないかと、わたくしは思います。

メッセージの一部を動画で紹介しています

霊人紹介

木戸孝允

(1833年-1877年)

 明治維新の元勲政治家で、幕末には桂小五郎として知られた尊皇攘夷派の中心人物であった。薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑として並び称せられた。
 志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」とも呼ばれた。明治維新の原動力となった長州藩士・吉田松蔭の弟子でもある。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、憲法や三権分立国家の必要性を説き、日本の発展に尽力した。
 過去世は、紀元前200年頃イスラエルにてマグガリスとして生まれるが詳細は不明である。その後、538年に、中国に天台智として生まれた。法華経を最大の経典とする天台宗の開祖のひとりである。